幻の野菜「亀戸大根」、伝統野菜とビジネスのいい関係
東京都江戸川区、住宅街の風景に馴染むようにビニールハウスが立っていた。ここで伝統野菜の亀戸大根が育てられているということを知らなければ、普通に素通りするだろう。人参と同じ大きさほどの小さな大根。少し苦味がある。江戸時代の文久年間(1860 - 1864)から昭和のはじめまで盛んに栽培されていたこの野菜は今、「幻の大根」と呼ばれ、ほとんど市場に出回っていない。 ビニールハウスの持ち主は中代農園の中代正啓さん(31)で、ハウスの扉を開けてもらうと、大根の葉の香りが漂ってきた。亀戸大根を育てて3年目。11月から3月がここの収穫期で、ひと月に約2000本を出荷するのだという。 中代さんの大根は、明治38年(1905年)に創業した江東区亀戸の割烹「升本(ますもと)」が買い取り、「亀戸大根あさり鍋」として提供される。しっかりとした食感が残る大根に、あさりの出汁が染み込んでうまいと評判の店だ。中代さんは「ようやく亀戸大根の作り方が分かってきました。伝統野菜は、一般に馴染みがないので、あまり売れません。しかし、升本さんのような大きな取引先があるから安定して出荷できるのです」と話してくれた。聞くところによると、亀戸大根の栽培農家は、江戸川区と葛飾区では3軒ほどしかないのだという。
大都会東京の23区と言えば、高層ビルやマンションが立ち並ぶイメージが強いが、江戸川区や葛飾区、杉並区、板橋区など11の区に農地が残る。区部の産出額のうち小松菜が25%を占め、中代さんの畑でも以前は小松菜を育てていた。 小松菜は、江戸川区小松川付近で古くから栽培されていた野菜で、将軍・徳川吉宗が名づけたと伝えられている。こういう言い伝えがあるため、小松菜を伝統野菜だと思ってしまうのだが、伝統野菜の復活に取り組む江戸東京・伝統野菜研究会の代表を務める大竹道茂さん(70)は「現在流通している小松菜は、江戸の伝統野菜ではありません」と言う。スーパーなどで広く流通している小松菜は、チンゲンサイなどと交配した「F1種」だからだ。 「F1種」というのは、多収穫で農家が生産しやすく、形がそろって人の口に合うよう改良された品種。1代雑種とも呼ばれ、F1種からは親と同じような特徴を備えた種がとれない。そのため農家は毎年、種を買い求めないといけない。だから一世代で終わる。 江戸東京野菜推進委員会(JA東京中央会)では、東京の伝統野菜について「江戸時代から伝わる伝統野菜と明治から昭和30年代にかけて東京で盛んであった園芸の中で生まれた野菜の総称」と定義。伝統野菜である小松菜を「伝統小松菜」と呼んで、一般に流通している「小松菜」と区別している。一世代で終わるF1種と違って、伝統野菜の種は、栽培されないと次の種が残らない。つまり伝統野菜というのは、長い間、農家が脈々と受け継いできた、世代を循環する野菜なのだ。