ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (51) 外山脩
晩年の上塚はよくヨボヨボの馬に乗ってコットリ、コットリと散策していた。そんなある日、ボテコ(居酒屋)を兼業している入植者の家に立ち寄った。が、家人が畑仕事に忙しそうにしている。そこで、気軽に赤子を預かり、背負って、店番をしてやった。 ところが、これは不慣れのせいで、ヘマをやらかした。客として立ち寄った近くの農場の支配人と、代金のことで喧嘩をしてしまったのだ。支配人は、いつもツケで呑んでいたのだが、それを知らず、現金での支払いを強く請求したという。 また、ある時は、酔っ払って馬で鉄道線路を歩き、警官に捕まり留置場に放りこまれた。 この地方では「シュウヘイ ウエツカ」の名は邦人以外にも知れ渡り、名士であった。が、当人を見たことのない人も多く、この支配人や警官も、そうであった。二人とも、それが「シュウヘイ ウエツカ」である、と聞いて信じ難い表情をしていたという。 植民地の小さな子供たちは、よく上塚の住まいに遊びに来て、朝寝をしている上塚の寝台に這い上がり、布団の上で飛び跳ね「起きて遊びに行こう」と誘った。 清貧にして、名利を求めず、暴力にも権威にも屈せず、ひたすら、弱者たる移民のために尽し、童(わらべ)たちと戯れ、句をつくる……。 身にボロを纏う野に隠れた聖人といえなくもない。 その生き様は、笠戸丸移民がドゥモントで騒ぎを起こしたとき、彼らに誓約した「どうか、私を今少し生かしておいて、諸君のために尽させて貰いたい」という言葉を本気で実行しようとしている……かのようだった。 間崎たち植民地建設の同志たちは──南樹や香山は別であったが──上塚に対する敬愛心を高めただけでなく、彼を装飾し続けた。生前から「移民の父」と呼んだ。イタコロミー植民地を上塚植民地と改名した。グァインベーの方は、初めから上塚第二植民地と名付けた。 装飾は、その死後も続いた。植民地に頌徳碑や句碑を築いた。サンパウロで伝記を出版した。 ところが、この上塚にも裏面があった。 例えば、経済的なことになると、常に誰かに負ぶさっていた。判っているだけでも、七年間の帝大在学中の学費、日本からブラジルに戻った時の船賃、その後の生活費や旅費、植民地の土地代、営農資金、病気になった時の長期入院費……を誰かに頼った。が、伝記には、こうある。 「自ら負うた負債は、一つも返済しなかった」 最後まで厚かましかったわけだが、実は本人は、それを気に病んでいた。 「負債は当人にとって、堪え難い呵責になっていた」 「胸に燃ゆる苦しさを僅かに酒の力を借りて勇気を奮い起こした只の人間以上の何者でもなかった」 とも記されている。 別資料には「一時、火酒で痴呆を装っていた」とある。 右の酒、火酒はピンガのことである。 平野運平と同様、ピンガで苦しみから逃れようとしていたのだ。 それでいながら、植民地で入植者たちが土地代の支払いを遅らせても、請求もしなかった。たまに向こうから払ってくれると、それをフェスタなどで、子供たちに与えてしまった──こともあった。 晩年の上塚の写真を見ると、喜劇役者がおとぼけ役を演じている様な……そんな顔をしているが、韜晦のための演技だったかもしれない。さらに、別の写真を見ると、幼児の様でもある。それが悟りの境地に達した天然の相……と見えなくもない。が、ピンガ中毒が祟ってのボケ症状……という気もしてくる。 上塚は、金銭面以外にも、裏面があり、それを南樹と香山が書き残している。 実は二人は植民地建設には加わったものの、二年ほどで退去している。上塚やその周辺を固める敬愛者たちとウマク行かなくなったのである。 南樹は、上塚より自分の方がブラジルに関しては先輩であるという自負を持ち続け「上塚君」呼ばわりをしていた。香山は上塚の植民地経営の能力に危うさを感じていた。 そういう二人を、上塚は煙たがっていた。敬愛者たちも面白く思っていなかった。