伊藤比呂美「保護猫エリックあらわる」
仔猫の登録名は、伊藤エリック。 いや、仮名ですけどね。うちの二匹がメイにテイラーだから、今度はマーキュリーか、エリックならクラプトンかと考えたが、いやいや飼うわけじゃない。保護しただけだ。一時的に世話してるだけだ。 エリックは、ケージに入れとくとずっと鳴いてる。泣いてるといってもいい。それでエプロンのポケットに入れてみたら、泣きやんだ。ポケットは重たく、温かく、あたしはそのまま、エプロン装着のカンガルー姿で夜を過ごした。 エリック、ポケットから出すと鳴き始めるから、あたしは指に唾をつけ、小さい眉間を鼻から額にかけて撫で上げた。母猫のまねなんである。母猫は肛門のあたりもよくなめて排泄をうながすんだろうが、それはちょっとやりたくないので、指で叩いて刺激した。そしたら素直なことにエリックは、だーとおしっこして、あたしの服も足も濡らしたのだった。温かかった。 夜はエプロンごとケージに入れた。チトーのためのケージだが、チトーは一度も入らないので、最近はニコの別荘みたいになってたのである。そこにエリックを入れて、戸を閉めたら、エリックはニコのふかふかベッドで朝まで眠ったのでありました。 ところが翌朝、ケージから出してちょっと目を離した隙にエリックがいなくなった。そして何の物音も鳴き声もしなくなった。 ソファーの下にもいない。ピアノの裏にもいない。植木鉢の裏にもいない。押入れの引き戸が2、3センチ開いていたから(メイが開ける)、まさか入れないだろうが万一と思って中を探したが、やっぱりいない。台所あたりにムカデやゴキブリといった生物の通る、外に通じる穴があるようだが(彼らはときどき出てきてメイたちに退治される)、仔猫がそこを通れるとは思えない。
そのときあたしは、以前ナミさんに聞いたことを思い出した。仔猫を保護するとき、スマホで猫の声を鳴らすと、隠れている仔猫が出てくるとナミさんは言ってたのだ。それであたしはスマホに取りつき、「母猫が仔猫を呼ぶ声」というのを見つけ出し、鳴らしたとたんにエリックが飛び出してきた。 さっきまで不安で泣いていた仔猫が、そしてここ数十分は暗がりの中で息をひそめていた仔猫が、「あ、おかあさんだ」と喜びに満ちあふれ、手足をのびのびと広げ、口におっぱいの感触を期待しながら、ぱっと躍り出てきたのだ。 その瞬間、あたしは自分の罪深さに打ちのめされた。 こんな幼い仔猫をだましてしまった。 だまされた仔猫が不憫でならなかった。 母猫を慕う心が、不憫でならなかった。 せめてもの罪滅ぼしに、あたしはつかまえたエリックを抱いて、唾をつけた指で、眉間といわず顎の下といわず、母猫がなめるように丹念にこすり立て、満足のごろごろを言わせてゆっくり寝かしつけてやった。
伊藤比呂美