『幸福論』で日本語の歌に革新をもたらした19歳の椎名林檎…ポップスでは稀な、「哲学」という単語を使った平成を象徴する音楽家誕生の瞬間
『丸の内サディスティック』は昭和の『東京行進曲」?
1999年の『丸の内サディスティック』から遡ること70年、1929(昭和4)年に、『東京行進曲』が日活映画「東京行進曲」の主題歌として誕生した。 金融恐慌による不況などから不安が募る中で、享楽主義や刹那主義がはばをきかせて、巷では「エロ・グロ・ナンセンス」が流行していた時代のことだ。 モダンボーイとモダンガール、略してモボ・モガが行き交う昭和初期の東京は、まだ戦争の影は薄く、街には妙な賑わいがあった。 そうした風潮の中で、西條八十は最先端の風俗を織り込んで、大衆にアピールすることを強く意識しながら『東京行進曲』を作詞した。 丸の内ビルディングを丸ビルに略し、思い切って調子を下した言葉でカタカナ横文字を散りばめた歌詞はモダンで、中山晋平が作曲して佐藤千夜子が歌うと、爆発的なヒットになった。 特に「ジャズで踊って リキュルで更けて 明けりゃダンサーの 涙雨」というデカダン調の歌詞は、扇情的だったという点でも『丸の内サディスティック』に通じるものがある。
先駆者たちの歩みの延長線上に、忽然と現れた19歳の椎名林檎
前半の昭和にあった「流行歌」の時代に、女性のソングライターはほぼ皆無だった。 後半の昭和である「歌謡曲」の時代になってようやく、岩谷時子や安井かずみといった女性の作詞家が活躍し始めて、道が拓けていった。 それに続いたのが加藤登紀子、荒井(松任谷)由実、中島みゆきといった、女性のシンガー・ソングライターたちであった。 彼女たちは成長していくにつれて、プロデュースの領域にまで進出し、「アーティスト」と呼ばれるようになった。 いずれも自分の作品を書いて歌うだけではなく、他者に作品を提供することで、ソングライターとしても実績を上げている。 そうした先駆者たちの歩みの延長線上に、忽然と現れたのが、19歳の椎名林檎である。 それまでの日本の歌の概念には収まらない大胆な楽曲を作り、自らの音楽でそれらを表現するという意味で、彼女は最初から「アーティスト」だった。 文/佐藤剛 編集/TAP the POP サムネイル/左:『無罪モラトリアム』(1999年2月24日発売、UNIVERSAL MUSIC) 右:『幸福論/すべりだい』(1998年5月27日発売、UNIVERSAL MUSIC)
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