『幸福論』で日本語の歌に革新をもたらした19歳の椎名林檎…ポップスでは稀な、「哲学」という単語を使った平成を象徴する音楽家誕生の瞬間
11月25日に46歳の誕生日を迎える椎名林檎。ほかの誰にも真似ができない音楽表現を極めてきた、平成を代表するアーティストの一人だ。そんな彼女のデビュー曲がもたらしたJ-POP界への衝撃をひも解いていく。 【画像】1998年発売の椎名林檎デビューシングルのジャケット写真
ポピュラー・ミュージック(大衆音楽)の変遷
昭和元年と昭和64年は、ともに7日間しかなかった。したがって昭和という時代は、昭和2年から昭和63年まで、西暦にすれば1927年から1988年までの約62年間であった。 それを半分に割ると、前半が1927年から1957年まで、後半が1958年から1988年までの31年間となる。 それぞれの31年をポピュラー・ミュージック(大衆音楽)という視点から見ていくと、戦前から戦後復興にかけての前半の昭和は、「流行歌」の時代といえる。 そして、高度成長期からバブルが弾けるまでの後半の昭和は、ロックやフォークの影響を受けるなかで、「歌謡曲」が全盛を迎える時代となった。 偶然なのか、必然なのか、1989年に始まった平成も、2019年4月末日までなので31年間となる。 平成に入ると、「歌謡曲」の中のポップスが、「J-POP」に受け継がれて呼称も代わり、コンピューターを使った音楽作りの比重が増えていった。 レコードやテープからCD、インターネットでのダウンロード、ストリーミングと、音楽を伝達するメディアも大きく変化しながら現在に至っている。
日本語の歌に革新をもたらした椎名林檎
平成を象徴する音楽家になる椎名林檎が、シングル『幸福論』で音楽シーンに登場してきたのは、平成という時代が10年目を迎えた1998年のことだった。 椎名林檎の革新性は何よりもまず、斬新かつ大胆な楽曲を作るソングライターだというところにある。 しかも、それを自ら歌で表現できるシンガーであり、アレンジや打ち込みもできるミュージシャンであり、自分を客観視してプロデュースできるアーティストでもあった。 『幸福論』は、歌の歌詞という常識をくつがえす散文スタイルで、ポップスでは滅多に使われない「哲学」などという単語も出てくる。 そして翌1999年2月に、デビュー・アルバム『無罪モラトリアム』がリリースされると、本格的にブレイクしてベストセラーとなり、新しい表現者として世に受け入れられていく。 自らを”新宿系自作自演屋”と称していたこともあって、アルバム2曲目の『歌舞伎町の女王』があらためて話題になり、続く3曲目の『丸の内サディスティック』も評判になった。 歌詞に出てくる「東京」「御茶ノ水」「銀座」「後楽園」「池袋」という地名は、いずれも営団地下鉄の丸ノ内線にある駅名からきている。 その前の曲で「新宿」の歌舞伎町を歌っていることもあって、どことなく東京を舞台にした流れの中での物語性が感じられる。 さらに歌詞を読めば、楽器メーカーのブランド名「リッケン」「マーシャル」「グレッチ」が並んで、楽器の街だった「御茶ノ水」などの風景も立ち昇ってくる仕掛けだ。