幸せな老後を送るために「清算すべき人づきあい」の基準とは?
過去を捨てて新たな人生を送る
今を楽しむ際に、過去を捨てるということは重要なポイントです。もちろん、過去を完全に切り離すことは困難でしょうが、過去につまらないこだわりを持っていると、本当の自分として生きることへの障壁になることは多いと思います。 大企業で役員になり、運転手付きの車に乗っていた人が、本当は車の運転が好きだから残りの人生はタクシードライバーをやりたいという話になれば、周囲の余計な反対も受けそうですし、運転そのものは好きでも客に偉そうにされるとケンカになってしまうかもしれません。 職業に貴賤はないと言いますが、実際は、高い地位を得た多くの人にとって、それがプライドの源泉だったりするので、それが得られなかった人をつい見下してしまうようなことがあるのでしょう。 新しいパートナーを選ぶ際も格差婚で、かつ男のほうがずっと年上で、元の社会的地位が高かったりすると、男性側の子どもたちが反対したり、周囲が金目当てと陰口を叩いたりすることは往々にしてあるようです。 逆に、貧しかった人でも、一生懸命貯金をしたおかげでとか、予想外に家が高く売れてとかの理由で、それなりの贅沢ができる金が得られたとしましょう。 資本主義の世の中なのですから、堂々とリッチな暮らしをしたり、ファーストクラスで海外旅行に出かけたり、高級外車などを買えばいいと思うのですが、何か物怖じをしたり、もったいない感じがして、そこまでの贅沢ができないこともままあるようです。 ギャンブルなどで勝ったときは、気が大きくなって、思い切って豪遊というような話はあるようですが、自分のために苦労してつくった金だと使えないというのは、何か矛盾がある気がします。 贅沢をして、思い切り楽しんで、最期は満足だったと思えるなら、終わり良ければすべてよしと思えるはずなのですが、貧乏していた頃の苦労が染みついてしまっていて、お金が使えないというのであれば、こんなにもったいないことはない気がします。 過去との比較という点では、そのせいで、幸せが感じられないということもあります。人間というのは、過去と比較して、自分が幸せだとか不幸だとか感じる性向があるようです。 ノーベル経済学賞を獲ったダニエル・カーネマンという心理学者は、人間の幸福度というのは、資産の総額ではなく、参照点との比較によって決まると論じました。 10億円持っていても、たった1万円損をしただけで、参照点より資産が減っているので不幸に感じるというわけです。逆に全財産が1000円の人が、自動販売機のくじで100円のジュースを当てただけでも幸せな気分になります。 かなりの資産を残し、何億円も入居金を払ったうえに、月に何十万円も管理費を払い、ケアスタッフも多く雇われていて、毎日5000円くらいの食事が出るような超高級老人ホームに入った、元大企業のオーナー社長にこの理論を当てはめて考えてみましょう。 それだけすばらしい部屋に住み、アメニティもよく、スタッフにも親切にされ、比較的豪華な食事が出るわけですが、現役時代の豪邸や現役時代にいろいろな人にヘコヘコされていた記憶や、現役時代に食べていた一流料亭やフレンチなどの味と比べると落ちると思うのではないでしょうか? 過去の記憶が邪魔をして、それが参照点になっていると、それより落ちたと思うと幸せを感じるどころか、不幸せだと思えてしまうわけです。逆に、子どもの頃からずっと貧乏で、大した学歴も得られず、ずっとこき使われてきた割には薄給で、社会的地位も低いため、どちらかというと見下され続けてきた人生を送ってきた人はどうでしょうか? 公費で入れる特別養護老人ホームで、スタッフに親切にされ(最近の高齢者施設の職員は相手の元の身分に関係なく親切です)、3品くらいのおかずに、ちゃんと具の入ったお味噌汁がつくだけで、「こんなにヨボヨボになってから、みんなに親切にされ、こんな贅沢な食事をいただけるなんて」と幸せを感じる可能性が大です。 ただ、これも程度問題で、同じ不幸でも、虐待や暴行などの過去の記憶は、トラウマというような形で、一生、その人を苦しめ続けることがかなりの頻度で起こります。 トラウマのある人に過去を断ち切れというのは、かなり難しい話なのですが、そうでない場合は、第二の人生を「本当の人生」にするためにも、やはり過去を捨てたほうがいいような気がします。 過去の栄光を心の支えにしたり、よすがにする人は少なくないのでしょうが、これからの人生が本当の人生なのだから、いろいろと新しい体験をしてみようとか、思い切り楽しもうとか、何かをやり遂げようとするほうが、新たな気分で新たな人生を送れるのではないでしょうか?
和田秀樹(精神科医)