62歳で死去「藤原道長」栄華を極めた“最期の日々”。死の直前には息子や娘が次々と亡くなった
場所は、道長の邸宅(土御門第)で、多くの公卿が参列しました。道長の法名は、行観(後に行覚)。藤原実資によると、道長の容貌は、老いた僧のようであったといいます。 道長は、月に数度は、後一条天皇(道長の外孫)のお顔を見たいと語っていたようなので、孫のことが可愛くて仕方なかったのでしょう。 そんな道長が出家した年には、いわゆる刀伊の入寇が起こります。女真族が対馬・壱岐を襲撃。壱岐守の藤原理忠ほか多くの島民が殺害されたのです。迅速な動きをする刀伊の軍勢でしたが、藤原隆家が率いる軍勢により、撃退されます。
さて、出家した道長ですが、完全に引退したわけではなく、人事に介入したりするなどしていました。とは言え、病が癒えず、道長も自らの人生の終幕がそう先のことではないと感じていたようです。 出家した道長が意欲を見せたのが、御堂の建立でした(御堂の建立には、数百人から千人の人夫が徴発されました)。また、丈六の阿弥陀如来像を作らせています。 そして、1020年3月22日、新造の御堂(無量寿院。後に法成寺に改名)の落慶供養が行われます。太皇太后・彰子や多くの公卿がこれに参列しました。
道長は1027年に亡くなるのですが、その間にも、有馬温泉に赴いたり(1024年)、近江国の関寺に参詣(1025年)しています。都でじっとしていたわけではありません。 道長の晩年の1027年には、後一条天皇に嫁いだ娘の中宮・威子が懐妊するという慶事もありました(威子は皇女を出産)。 しかし、同年には三条天皇の皇后であった娘の藤原妍子や、嘱望されながらも若くして出家した三男の藤原顕信が亡くなるといった不幸にも見舞われます。
■道長に死が迫ってきた そして、道長にも死が迫っていました。下痢のような症状が道長を襲い、段々と衰弱していきました。背中には腫れ物もあったようです。その年の11月21日には飲食することもできませんでした。 道長死去との「誤報」が流れて、多くの人々が馳せ集まるという出来事もありました。藤原実資も急いで駆けつけますが、実資が見た道長は身体を震わせていたようです。 医師(和気相成)の見立てによると、この症状は、腫れ物の毒が腹の中に回り、引き起こされているとのことでした。道長の身は、阿弥陀堂の正面の間に移されました。道長は阿弥陀如来像と向き合い、最期の時を過ごすことになります。