「ぼくの車椅子を押してくれるかい?」ピート・ハミルがささやいた、意外すぎるプロポーズの言葉
映画「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」(1977年)の原作者として広く知られ、アメリカでは反骨を貫くジャーナリストとして、またコラムニスト、小説家として一世を風靡したピート・ハミルさん。かつてはプレイボーイとまで呼ばれた人だった。 【写真を見る】自宅の広大な庭で愛犬と一緒に リッラクスの表情のピート・ハミルさん
一方、「ニューズウィーク日本版」創刊のためニューヨーク支局で働くことになった青木冨貴子さん。ピートさんとの仲を深めていったが、彼からの連絡は次第に滞るようになり、別れも覚悟する。その後、二人はふたたび以前のように付き合うようになったが、彼女の内面で何かが変わった。「ありのままの自分で良い」、そう思えるようになったのだ――。 ※本記事は、青木冨貴子氏による最新作『アローン・アゲイン 最愛の夫ピート・ハミルをなくして』より一部を抜粋・再編集し、第10回にわたってお届けします。
「人生をもっとシンプルにしたい」
1986年の夏、ニューオリンズで一緒に過ごしたとき、ピートはメキシコの英字新聞の編集長になるかもしれないと話していた。 「これまでいろいろやってきたけれど、新聞を自分で作ったことはないんだ。だから、やってみたいと思う。それにメキシコだったら、バイリンガルの秘書を雇って、ペントハウスの大きなアパートに住める」 彼は熱っぽく語り、もうすっかりメキシコの暮らしに夢を託していた。 「大きな庭つきの家を借りるのも良いね。運転手付きのクルマに乗って、メイドさんや庭師も雇うんだ」
まるで妄想に取り憑かれたように楽しそうに話す。そして、わたしに一緒にきてくれというのだった。 「ぼくは人生をもっとシンプルにしたいんだ」と彼はいった。 メキシコが新しい人生を切り拓いてくれると思ったのかもしれない。
メキシコで「九死に一生」
彼が初めてメキシコへ行ったのは、海軍を除隊した21歳の時のことだった。 「本当はパリに行きたかったんだ!」 彼は何度もこういっていた。もともとはパリで絵描きになることが夢だったが、物価が高くて手が届かず、現実的でないとわかるまでに時間はかからなかった。 「とにかくメキシコは物価が安いからね」 引退してメキシコに移住するという知り合いの言葉に触発されたピートはメキシコ・シティ・カレッジがGI奨学金による留学生を受け入れていて、芸術学科を卒業すると芸術修士号の学位がもらえるという制度を見つけた。 その瞬間からメキシコに留学するというアイディアに取り憑かれたピートは、幼馴染の親友ティム・リーに相談した。ふたりで願書を出し、入学許可が下りるとグレイハウンド・バスでメキシコ・シティを目指した。ポケットにはなけなしの80ドルを忍ばせていた。 メキシコへ到着して数カ月の間、ピートは壁画家たちの力溢れる巨大な絵に脱帽し、芸術学科の授業のほかにスペイン語も勉強しながら、親友ティム・リーとともに近くの酒場や小屋、学生同士のパーティーなど至るところで飲んでは歌い、歌っては酔い、発育の良いメキシコ人の若い女を眺めたり、一緒に飲んだり踊ったりして、「あんなに楽しいときはなかった」というくらい良い時を過ごした。 しかし、ハメを外して朝まで酔い潰れるようになり、ついには喧嘩騒ぎを起こした。“希望通り”にある娼家のドア一枚を壊したという罪状で、気がついたら警官に包囲され、逃げている後ろから拳銃を発砲された。 「タン、タン、タンって音がして、少なくとも3発の弾丸が頭のわきをかすめたんだ」