「東大ではなく早稲田慶応くらいが記者にはちょうどいい」…!《読売新聞のドン》ナベツネが山崎拓に明かした「本音」
真に教養あるリーダー
「社長室にはカントの『純粋理性批判』をはじめ哲学書がズラリと並んでおり、図書館のようだった。『俺は全部読んだ』と豪語されていた。私は『1冊読むのも大変。全部読めるわけがない』と疑ったが、哲学にしろ文学にしろ知識量は膨大だった。あの豪腕は豊富な読書量に支えられていた」 【一覧】あなたの県知事は…?全国47都道府県「知事の履歴書」 こう回想するのは、元自民党副総裁の山崎拓氏(88)だ。 読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡邉恒雄氏が昨年12月19日、肺炎のため亡くなった。98歳だった。 渡邉氏は大正最後の年である1926年に現在の東京都・杉並区で生まれ、開成中学、旧制東京高校を経て、1945年に東大文学部哲学科へ。哲学者を夢見ていた時期もあったというが、入学して間もなく学徒動員で陸軍砲兵連隊に配属され、終戦後、日本共産党に入党。だが、党本部と対立して除名処分に。東大大学院を中退し、読売新聞社に入社したのは1950年。24歳だった。 「政治の世界に50年以上いましたが、真に教養のあるリーダーは、中曽根康弘、大平正芳、宮澤喜一、そしてナベツネさんだけだった」
屁理屈を言うヤツはダメだ
「ナベツネ」の愛称で知られた渡邉氏は、1991年に読売新聞社の社長に就任。2002年のグループ再編で読売新聞グループ本社の社長となり、2004年から12年にわたって会長を務めた。歯に衣着せぬ発言ゆえ、その人となりが語られるとき、「傲慢」「尊大」と揶揄されることもあったが、山崎氏が見た「ナベツネの実像」とは。 「東大法学部から大蔵省というエリートコースを歩んだ宮澤喜一さんは、東大法学部以外の人間を認めていなかった。酒に酔うと本音が出て『てめぇ、早稲田出のボンクラじゃねえか』となる。 一方、ナベツネさんもエリートだが、そうした偏った発言はなかった。むしろ『屁理屈を言うヤツはダメだ。記事にエリート意識は必要ない。読者目線で書くことが重要だ。その意味では早稲田慶応くらいが記者にちょうどいい』という考え。朝日毎日に比べると読売は東大出が少ないが、これはナベツネさんの方針だった。 ナベツネさんは偉そうにしていると見られがちだが、我々の前ではざっくばらんだった。非常に筆まめな方で、私の近況を気にかけてくれた。また、巨人戦のチケットをよく送ってくれた。 陰では『ナベツネさん』と呼んでいたが、面と向かって呼んだことはない。私より10歳年上。個人的にお世話になったこともあり、『渡邉さん』と呼んで敬愛していた。一方、私は『拓さん』と呼ばれていた」