日本社会の「体育会系精神」は学校教育で養われてきた? 運動会「子どもの組体操」に感動する大人への“違和感”
感動をやめられないのは「心も身体も気持ち良くなる」から?
ここまで書いて、自分がとても感じの悪い人になっていると気づきました。言い訳するわけではないのですが、実は私自身も柄に合わず「感動屋さん」だったりします。 ふと目にしたネットニュースやテレビを見ながら、感動で涙がこみ上げてくることがよくあります。お涙頂戴の話にも弱いです。テレビなんかを見ていて、それらしきナレーションがあったりすると、すぐに共感してハマってしまい、気がつくと泣いています。 けれども、最近はその後に「待った待った」と反省することが増えました。少し時間が経って冷静になってみると、「弱い立場の人が何かを強いられて頑張っている姿に私が感動するのって何か違う。なんでこんな美談に引っ掛かったんだろう」と自己嫌悪に陥ることもあります。 それなのに、またテレビを見て似たような話があると、やはり泣いてしまいます。「感動する」って、もしかすると心も身体も気持ち良くなることだからこそ、なかなかやめられないのだと最近になって気づきました。
「感動ポルノ」の問題点
少し前に「感動ポルノ」という言葉がありました。 「24時間テレビ」関連でよく出てきた言葉ですが、健常者が障害者に課題を強いる形で、「一生懸命になって頑張る姿を見てみんなで涙を流す」というような場面を見ると、自分も感動しながら、確かに「感動したで終わらせるべき話ではないかもしれない」と思うことがあります。そうした「感動」は必ず時間の経過とともに私の中で後味の悪いものとなります。 「自分よりも立場の弱い人が、ムリと思われる課題に一生懸命取り組んでいる」ということに日本人は感動しがちです。でも、それこそが問題です。 ピラミッドで言えば、大人が趣味として定期的に社会人や主婦などが公民館などに集まってやるのならいいと思います。それを見て感動するのも勝手です。でも子どもたちは、大人が感動したいがためにピラミッドを「やらされている」わけです。
ナルシストっぽいかもしれないが…「自分に感動」したほうが“よほど健全”
これは、自分自身にも言い聞かせたいことなのですが、人の苦労を見て好き勝手に感動する前に、自分で頑張って自分に感動してみたいものです。 自分に感動って、歯がゆくてなかなかできるものではないし、ナルシストっぽいかもしれませんが、他人が苦労する姿に感動するよりも、よほど健全だと言えるでしょう。何よりも「他人に苦労を強いて感動する」人が自分も含めて減れば、世の中だいぶ平和になると思うのです。 最近、私はかつて失恋した時によく通った場所を訪れて「今の自分はこんなに元気! ここまでよく頑張った!」などと現場で一人ニヤニヤして怪しい人になっていることがあります。でも、自分に感動して完結しているので許していただきたいです。 「当時の落ち込んでいた自分に今の自分の姿を見せてあげたい!」 そんな気持ちになりながら、何となく「私はすごい!」という自己肯定感を持つことにも役立っている気がします。周りの人から怪しまれるかもしれませんが、みなさんもお試しを。
サンドラ・ヘフェリン