黒船来航を見て「これだ」 大倉財閥の礎を築いた北国の豪傑 大倉喜八郎(上)
大倉喜八郎は、大倉財閥の礎を築いた明治・大正期の実業家です。名字を冠した「ホテルオークラ」や東京経済大学の創始者としても馴染みがあるでしょう。新潟県出身の大倉は安田善次郎らとともに“北国出身3巨人”にも数えられる豪傑で、明治維新期の動乱の時代を見抜き武器に着目して名を上げ、財を築きました。「太閤」の異名を持つ智恵者だった大倉の前半生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。 3回連載「投資家の美学」大倉喜八郎編の1回目です。
72歳にして精力、富力、動力衰えを知らず
明治から大正にかけて、東京の日本橋蛎殻町(かきがらちょう)には相場関係の新聞社、通信社がたむろしていた。谷崎潤一郎の祖父、久右衛門も相場通信社を営み“谷崎物価”として知られていた。十指に近い報道機関の中で、抜きん出ていたのが毎夕新聞社(蛎殻町1丁目)で、米穀取引所に隣接していた。 毎夕新聞社は相場報道だけでなく、市場人の動静もウオッチしていた。明治42(1909)年に出版した「財界名士失敗談」は大倉財閥の祖、大倉喜八郎の横顔を以下のようにとらえている。 「(東京・赤坂)葵町の高台に三層の楼閣を築き、体躯を安楽いすに横たえ、タバコをくゆらしつつ悠然と構えておるのは、誰あらん大倉氏その人なり。悠然といっても漫然とのん気にご隠居様を極め込むにあらず、依然たる旧精力は老いて衰えず、その富力、活力、及び動力は相変わらず財界の一大槓桿(こうかん=てこ)と称せられている」 この時、喜八郎は72歳の高齢である。それでいて、精力、富力、活力、動力ともに衰えを知らないのはもって生まれた雪国根性と、市場経済の夜明けを勝ち抜いた闘魂の所産ではないだろうか。
「資産倍増して」と願い出て盲目の高僧に一喝される
喜八郎は名門の家に生まれ、何不自由なく成長していくが、片田舎を一日も早く脱出したいと願っていた。願いがかなったのは18歳の時。姉からもらった20両をふところに、江戸に向かう。江戸は麻布飯倉町の商家に住み込み、乾物の商いで商売の駆け引きを覚えていく。生来、強い向上心の持ち主で、独立の夢を抱いていた。ほどなく上野で塩干魚の店を持つと同時に行商にも歩いた。 喜八郎の商いのモットーは安く売ることだった。利益は少なくとも量で稼ぎ、倹約に努めた。だから100両貯めるのにさほど時間を要しなかった。 ある日、その100両を持って新潟出身の先人、佐藤検校(けんぎょう=盲目の高僧)を訪ねた。盲目ながら才覚に優れ、巨万の富を蓄えていると評判のひと。 喜八郎は100両を差し出し、これを預けるので資産を倍増していただきたいと申し出る。この時、佐藤検校は喜八郎を叱りつける。 「貴様は両目を持っていながら、盲目のようなことを言うとは何事であるか。わしがやっている金貸し業は貴様のような若造のやることではない。貴様は商業に励んで銭谷五兵衛(編注※1)や紀伊国屋文左衛門(編注※2)の右を行くような商人になることだぞ」 (※1)…銭谷五兵衛 江戸末期の豪商。加賀の人。海運業を営み、エゾ松前との通商で利益を上げた。河北潟干拓事業に際し、罪を得て獄死。(1773~1852) (※2)…紀伊国屋文左衛門 江戸中期の豪商。通称紀文。紀伊の人。材木問屋を営み、江戸大火の際、材木買い占めや紀州みかんの江戸輸送で巨利を得たという。豪遊して紀文大尽ともいわれ、伝説化された話が多い。生没年不詳。