黒船来航を見て「これだ」 大倉財閥の礎を築いた北国の豪傑 大倉喜八郎(上)
ビジネスチャンス求め横浜の岸壁で見たのは
この佐藤検校の一喝で喜八郎は目が覚めたという。喜八郎は後年、「致富の鍵」と題して自伝を口述しているが、その中で、「私が捉えし、一生に一度の商機」の章が有名である。佐藤検校に罵倒された直後、一世一代の商機をつかむことになるのだ。それは横浜でのことだった。 喜八郎はある日、横浜に出かけた。これという当てがあったわけではないが、開港間もない横浜にはビジネスチャンスが拾えそうな予感を持っていた。しかし、牛を放し飼いにする牧歌的な風景と出会うようでは商売のタネは見つかりそうもなかった。 ところが、喜八郎が岸壁に立った時、目に飛び込んできたのが黒煙を吐きながら近づいてくる外国籍の蒸気船である。その豪快な黒船が喜八郎を圧倒する。「これだ。これだ。こういうものが日本へ来るようではきっと天下は一変するに違いない」。 幼時にその智恵者ぶりから「大閤」と呼ばれた喜八郎の頭脳はこの時ひらめいた。 「天下が一変するについては必らずや騒動が起こる。騒動が起これば戦争によって曲直正邪を決着しなければならぬ。戦争に必要なのは武器である」 =敬称略
■大倉喜八郎(1837~1928)の横顔 天保8(1837)年、越後国北蒲原郡新発田(現新潟県新発田市)の名主の3男に生まれ、幼名は鶴吉、あだ名は「太閤」。その由来は面構えからではなく、近在にも聞こえた智恵者だったからだという。18歳の時、江戸に出て乾物の商いに従事、慶応3(1867)年、神田で大倉屋鉄砲店を開業、明治5(1872)年に洋行、翌6年に大倉組商会を創立、200社以上の事業会社の経営に参加、大倉財閥を築く。昭和3(1928)年他界 =敬称略