“1ドル=240円時代”米ツアー取材の過酷実態とは!? 昭和のゴルフ記者は“命の危険”を冒して岡本綾子を追った【小川朗 ゴルフ現場主義】
米ツアーで日本企業のロゴが躍るほど高まる反発
一方で円安は日本のメーカーにとって輸出への完全な追い風となります。日本企業の米国進出が相次ぎ、LPGAツアーをマツダが年間シリーズとしてスポンサー契約を結び、開幕戦と日本での最終戦の冠スポンサーとして名を連ねます。さらに京セラやユニデンなど他の日本企業も、カリフォルニアでトーナメントを主催しました。 男子も前年に青木功選手がハワイアンオープンで128ヤードを直接叩き込む大逆転イーグルで日本選手として米ツアー初優勝を飾ったばかり。1984年シーズンは開幕戦をセイコー、4試合目がいすゞ、8試合目がホンダ、9月にパナソニックと、日本企業が4試合をスポンサードしていました。その後もロサンゼルスオープンを日産、ハートフォードオープンをキヤノン、ワールドシリーズをNECやブリヂストンがスポンサードするなど、日本企業の進出はめざましいものがありました。 しかし、それはアメリカ人のプライドを強烈に刺激します。当時はロナルド・レーガン政権で、大統領自らがTVコマーシャルに出てきて「バイ・アメリカ(アメリカ製品を買おう)」と訴えていました。日本企業の攻勢が、米国企業不振の一大要因としてクローズアップされていました。 「日米貿易摩擦」「ジャパンバッシング」という言葉と、米国人労働者が日本車をハンマーで叩き壊す写真を教科書の中で目にした方もいるかもしれません。日本人記者への風当たりも強くなります。岡本選手が優勝を飾ったロチェスター(ニューヨーク州)はニコンやキヤノンに押されるコダックの本拠地。トヨタや日産、ホンダに蹂躙される自動車の町・デトロイト(ミシガン州)やブリヂストンの攻勢を受けるタイヤの町、アクロン(オハイオ州)などでは「お前ら日本人のおかげで職を失った」などと言いがかりをつけられることもしばしばありました。 翌1985年9月22日、米国の呼びかけで先進国5カ国(日・米・英・独・仏=G5)の財務大臣と中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルに集まり、会議が開催されました。プラザ合意の狙いは、ドル安によって米国の輸出競争力を高め、貿易赤字を減らすことにありました。