2大メガバンクがトヨタ株売却へ…?日本株「持ち合い」終焉のウラで動き出す“黒船”
「持ち合い」の始まりと加速化の要因
持ち合いの始まりは藤綱久二郎という一人の相場師によってもたらされた。彼は1952年にGHQが三菱合資から接収していた丸の内の不動産の多くを受け継いでいた陽和不動産(その後、もう1社の関東不動産と三菱地所、3社が合併し現在の三菱地所が誕生する)の株価に目を付け、35%の株式を買い占め、その株式を買値にプレミアムを乗せた価格で三菱各社に引き取らせることに成功した。 丸の内という三菱にとってはグループの象徴とも言えるエリアを言わば人質にとって、財閥解体されたとは言え、三菱の名前に矜持を抱く当時の三菱系各社の経営者たちを動かした彼は、グリーンメーラーとして、大きな勝利を勝ち得たと言っていい。その後、このような「乗っ取り屋」からグループを守るために旧財閥系を中心にした「株式持ち合い」が広まっていった、とされる。 それでは持ち合いが何を生むのか、だが、財閥研究では奥村宏氏の一連の著作が思い出される。極端な表現になるが、互いに持ち合われた株式は、経営参加権という剰余利益分配権と並ぶ株式の価値のもう一つの源泉について、それを無化する働きをする。三菱系A社が例えば三菱系B社の株を3%保有すれば、その3%の議決権は最初から三菱系B社の経営者へ投じられる賛成票になる。 つまりそれは経営者相互が互いの経営を守り合うための行為に他ならない。我が国が日米同盟の対価として思いやり予算を計上し、仮想敵の脅威から身を護るようなものだ。そして、この段階で想定された仮想敵は「乗っ取り屋」だった。 さて、「持ち合い」のきっかけはこのようなものだが、我が国の「持ち合い構造」を加速化させた最大の要因、それは、1964年、OECD加盟に伴う資本自由化だ。黒い目の総会屋や乗っ取り屋だけでなく、青い目の外資が、買収を仕掛けてくる。その恐怖への対抗策として主幹事証券やメインバンクなどが知恵とネットワークを提供し、我が国事業会社相互の相互安全保障体制が構築されていった、それが司令塔としてのメインバンクを中心とする我が国の「株式持ち合い構造」になる。 もちろん、それは事業としての連関性・相関性も加味された構造だ。重要な取引先や下請け先がある日突然外資になって、苛酷な取引条件が提示されたり、突然に取引が停止されないように、持ち合いは幾層にも幾層にも張り巡らされた構造になっていった。