中山美穂さんの〝育ての親たち〟が語るデビュー当時の素顔 女性にファン層広げた先駆者 弱音吐かないミポリン…常に前向きアイドル
〝ミポリン〟の愛称で親しまれ、演技と歌の両方で輝きを放つアイドルとして一時代を築いた中山美穂さんが突然逝った。訃報を知り絶句したというデビュー当時から宣伝担当を務めた元キングレコード常務取締役の竹中善郎さん(69)は「責任感が強い頑張り屋さんだった。いくつになっても歌いたいと言ってたのに…」と唇をかんだ。15歳でデビューし、瞬く間に頂点へと駆け上がった裏には、どんなに忙しくても決して弱音を吐くことなく、歌が好きという一念で前進し続けた信条があった。 【写真】アイドル時代から変わらぬ美ぼうで老若男女に愛された美穂さん 誰もが耳を疑ったミポリンの死。竹中さんは「残念という言葉しか出てこない。常に前向きでガッツがあった。体も丈夫だったのに…」と声を詰まらせた。 キングレコードが美穂さんとの契約を決めたのは1984年夏。「オーディションをしたディレクターが『絶対にやりたい』の一言でデビューすることになったんです。私は売れるかなと心配でしたが」と証言する。 才能を見抜いた初代ディレクター、福住朗さん(75)は「複数のレコード会社を回って最後の方にうちに来た。目力が強く、秘めた思いを感じたんです。歌っている表情もよく、言葉の出し方がきれいだった。売れると思ったので、反対する上司を猛烈に説得しました」と振り返る。 福住さんの眼力に狂いはなかった。翌85年1月期のドラマ「毎度おさわがせします」でツッパリ少女を演じ、ブレーク。さらに「夏・体験物語」で初主演を射止め主題歌「『C』」で歌手デビュー。日本レコード大賞最優秀新人賞に輝き、トップアイドルの座を不動にした。 福住さんが過去に江利チエミさんを担当した経験から歌とドラマの相乗効果を狙った試みがハマった。竹中さんも「歌手と女優の両方で頂点を極めた先駆け的存在。スケジュールはすごくタイトだったのに、絶対に弱音は吐かなかった。一度だけ過労で休んだことはあったけど、それ以外は少々疲れていても仕事をこなし続けていた頑張り屋さんだった」と語る。 美穂さんはファン層を女性にも広げた先駆者でもあった。86年に資生堂のCMに出演し、竹内まりや(69)作詞作曲の「色・ホワイトブレンド」がヒット。10~20代の憧れの存在になり、コンサート会場の半分は女性で埋まった。
結婚と育児で歌手業からは離れたが、離婚後の19年に20年ぶりのアルバムを発売した。竹中さんは「言葉数が多い方ではないのに『いくつになっても歌いたい』と熱い思いを語っていました。一度離れたからこそだったのかな」とぽつり。「歌がうまいというよりも伝える力があった。それが彼女の魅力。残念です」と天国へ思いをはせた。