柴田勲さん、ON差し置いて4番でアーチ 川上監督を一番喜ばせたと自負できる試合
巨人球団創設90周年記念の連続インタビュー「G九十年かく語りき」の第5回は、主に1番打者としてV9に大きく貢献した柴田勲さん(80)の登場だ。日本初の本格的なスイッチヒッターは、代名詞とも言える赤い手袋とともに、縦横無尽にグラウンドを駆け巡った。時代の先駆者だった柴田さんが振り返る「喜怒哀楽」とは―。(取材・構成=湯浅 佳典、太田 倫) 甲子園で夏春連覇して、巨人のエースになるつもりだった。でも、肩が痛くてね。1年目、たった6試合で失格の烙印(らくいん)を押された。川上哲治監督に「いいかげん、投手はあきらめろ」なんて言われて。ただ、巨人のレギュラーになれたのは、スイッチヒッターに転向したおかげだった。 川上さんには「日本のモーリー・ウイルスになれ!」って指令されて、ビックリだよ。モーリー? 聞いたこともない名前さ。 「で、どんな選手なんですか?」 「オレも知らん。牧野に聞いてくれ」 監督も知らない選手になれっていうんだから、いいかげんなもんだよ! モーリーは、ドジャースにいた両打ちで快足の内野手だった【注1】。米国の視察に行ったヘッドコーチの牧野茂さんが、ノーヒットでも1点を取れる、モーリーのような選手が巨人にも欲しいと進言したらしい。 僕の足が速いと知られたのは、入団直後の宮崎キャンプ。ある日、雨で練習を切り上げることになった。川上さんがファンサービスのため、長嶋さんとオレを100メートル競走させることを思いついた。球場の隣の陸上競技場で、運動靴の僕がスパイクの長嶋さんに勝った。それで白羽の矢が立ったわけだな。 喜怒哀楽をほとんど見せない川上さんを一番喜ばせたと自負できる試合がある。1969年7月3日、甲子園での阪神戦。3番・長嶋、4番・柴田、5番・王。江夏豊を苦手としたONの気分転換を図ったオーダーがハマった。初回に高田繁がソロ、そして僕が2ランを打って4―1で勝った。 全盛期のONを差し置いて4番なんて、僕だけですよ。失敗したら、監督は何を言われるか分からない。大バクチが当たったわけだ。バスに乗り込んだら、川上さんが満面の笑みで「柴田、よくやった!」って握手してきた。監督のあんな笑顔、最初で最後かもしれない。 「明日もオレが4番ですか?」 「バカ野郎、今日だけだ!」 スイッチをやるなら、ヤンキースで536本もホームランを打ったミッキー・マントルみたいになりたかったんだけど…。モーリーのプレー? 結局1回も見たことがないね。 【注1】ドジャースでは遊撃、三塁を守り、1960年から6年連続盗塁王。62年は104盗塁でナ・リーグMVPになるなど3度のリーグ優勝、2度のワールドシリーズ制覇に貢献。 ◆柴田 勲(しばた・いさお)1944年2月8日、横浜市生まれ。80歳。法政二時代、エース兼主力打者として60年夏、61年春の甲子園で連続優勝し、62年に巨人入り。この年6試合で0勝2敗に終わり、翌年から外野手に転向。俊足の1番打者として盗塁王を6度獲得。通算2208試合に出場。2018安打、708打点、194本塁打。打率・267。通算盗塁数579個は現在もセ・リーグ記録。
報知新聞社