ラジオに家一軒分の価値があった 即位の礼やスポーツ実況で普及、戦況放送で加速 AMノスタルジー③「熱狂」
くすんだ茶色のレトロなラジオから、女性パーソナリティーの明るい声で、現在の交通情報がはっきりと聞こえてくる。見た目と音の対比が何とも不思議な感覚を呼び起こし、自分がどの時間にいるのか、一瞬分からなくなるほどだ。 【写真】ラジオ放送開始当時の米国製ラジオ。家1軒分の価格だった 長野県松本市のラジオ愛好家、横内照治氏(70)の自宅には、昭和初期に作られたという古い高級ラジオがある。手入れは完璧で、まだまだ現役。約100年前の装置で現代の電波を受信し、やわらかい音を日々、奏でている。 ■相場確認用の高級品 日本でのラジオ放送は大正14年に始まったが、当時のラジオは高級品で、小さな家が1軒買えるくらいの価格だった。庶民には手が届かず、相場などをいち早く知りたい経営者らが、こぞって買い求めた。 横内氏は「生糸は当時、日本の重要な輸出品でしたから、商人たちはラジオで相場をチェックし、高いときに売ろうとしました。だから、長野県は全国でもラジオを持つ人が比較的多かったそうです」と語る。横内氏の実家もまた、養蚕農家だった。土蔵には、今聴いているのとは別のラジオが眠っていたという。 昭和3年の昭和天皇即位の礼は、ぜいたく品だったラジオが一般化し始めたきっかけだ。社団法人日本放送協会(NHKの前身)は即位の礼に合わせ、全国の中継網を完成させた。この年、全国の受信契約は17万件増え、56万件となった。 スポーツ実況も、こうした流れを後押しした。2年に大阪放送局で現在の高校野球の実況放送が始まり、4年からは全国中継となった。6年に受信契約は100万件を突破し、7年からは五輪の中継放送も始まった。人々はラジオに聞き入り、スポーツに熱狂した。 ラジオの価格も「1台1台、注文に合わせて手作りする特注品」(横内氏)だったのが大量生産で下がり、普及に拍車をかけた。 ■日中戦争で契約急増 放送内容の充実も欠かせない。大正14年、ラジオのために創作された初のドラマ「炭坑の中」では冒頭、「電灯をお消しになったならばなお一層その気分に親しむことができるでしょう」と呼びかけた。真っ暗な世界を想像させ、音だけの世界にいかに引き込むかの工夫がうかがえる。 教養番組も盛んに制作され、今に通じる英語や料理など人気番組が生まれた。NHKによれば、昭和3年開始のラヂ(ジ)オ体操は、同じタイトルの番組としては最長寿だという。