ラジオに家一軒分の価値があった 即位の礼やスポーツ実況で普及、戦況放送で加速 AMノスタルジー③「熱狂」
受信契約は12年以降、突出して伸び始める。それまで多くても1年に30万件台の増加だったのが、一気に67万件を記録し、16年まで毎年58万~95万件と急増する。12年は支那事変(日中戦争)が起きた年だった。
「データがはっきりと語るように、人々は戦争のニュースを聞きたがったんです」。日本ラジオ博物館の岡部匡伸館長(60)は言う。雑誌の付録や新聞には中国大陸の戦況地図が載り、人々は地図を眺めながらラジオを聞き、「今日は〇〇市を陥落させた」と関心を寄せたのだ。
もちろん、大陸に出征した家族らを案じる人々も多くいただろう。だが、どこかスポーツ実況に手に汗握るのと近い部分が感じられなくもない。戦争までも一種の「娯楽」として消費しながら、ラジオ熱はピークへと駆け上がっていく。
送信所地下の「秘密」
ところで、この連載の初回で触れた文化放送川口送信所(埼玉県川口市)は、昭和3年に日本放送協会の送信所として建設された。ラジオ体操の開始年で、ラジオは健康にも役立つ存在として国民生活に浸透する。ただ、電波の力は、朗らかな面ばかりではない。
「川口送信所の地下には戦時中、秘密のスタジオがあって、何か良からぬことをしていたらしいぞ」
文化放送シニアプロデューサーの関根英生氏(63)は、昭和59年の入社後に先輩から、こんな噂話を聞かされたという。
関根氏は令和2年、自ら手掛けた番組でこの噂を解き明かす。キーワードは「プロパガンダ」。熱狂の先に、ラジオは「姿なき武器」としての顔を持っていた。(大森貴弘)
■ベルリン五輪「前畑ガンバレ」に賛否
昭和11年のベルリン五輪では、前畑秀子選手が出場した女子200メートル平泳ぎの実況放送でアナウンサーが23回も叫んだ「前畑ガンバレ」の名言が生まれた。人々がラジオのスポーツ実況にかじりつき、日本人の活躍に心を躍らせていた姿を象徴する出来事ともいえる。
ベルリン五輪はヒトラー総統率いるナチス・ドイツを世界に喧伝する情報戦の側面も強いが、日本にとっては初となる五輪の実況放送の場だった。ドイツ側は送信機や録音機など放送設備をほぼすべて用意する力の入れようで、日本放送協会はそれを使った。
「前畑ガンバレ」は歴史に残る名実況となったが、日本放送協会が当時実施した識者アンケートなどでは「度が過ぎている」「かえって興ざめだ」といった批判も少なからずあった。アナウンサーの主観と客観のせめぎあいは、今に続く課題でもある。