<高校野球物語2022春>/3 「外様」伝統に刺激、初切符 大分舞鶴・河室監督「技術より体力」
伝統を紡ぐだけでは高みに届かないこともある――。大分舞鶴が創部から70年の時を経て、初の甲子園出場を決めた軌跡を追うと、そんな感慨がわいてくる。少数派といえるOBではない監督、いわば「外様」の監督が、二つの刺激を加えて殻を破った。 ◇大分舞鶴・河室監督「技術より体力」 大分舞鶴は大分県内有数の進学校だ。2021年度入試では東大など国公立大学現役合格者が卒業生の72%に上り、野球部も22人のうち13人が国公立大に進んだ。学校は文武両道を掲げ、ラグビー部は全国大会の常連で、ハンドボール部のOBからはオリンピック代表も選出された。 近年、勉強もスポーツも懸命に取り組む校風に対する人気が高まり、野球部員も増えた。野球部OB会の柏井幸憲会長(65)は「舞鶴に行って大学に行き、大学でも野球を続けたいという生徒が増えました」と語る。有望選手も集まり、16年秋以降は8強入りも珍しくなくなった。だが、準々決勝、準決勝で勝てず、甲子園は遠いままだった。 転機となったのは20年8月、河室聖司監督(57)の就任だ。翌21年には春の大分大会を30年ぶりに制すと、夏の大分大会は決勝で明豊に敗れたが、甲子園にあと一歩まで迫った。チームが代替わりした21年秋も大分大会で準優勝し、春秋連続で九州大会に進出。1回戦で敗退したものの、準優勝した大島と引き分け再試合の熱戦を演じた。 躍進を生んだのは終盤の粘りだ。象徴的なのは21年秋の大分大会準々決勝。春夏通算21回の甲子園出場を誇る大分商を相手に2点を追う九回2死走者なしから、四球を皮切りに3連続長短打で3点を奪ってサヨナラ勝ちした。九州大会の大島戦の1試合目も1点を追う九回に2死走者なしから適時二塁打で追いついて引き分けに持ち込んだ。 OBで13年から外部コーチを務めるなど長年、野球部を見守ってきた土居弘治コーチ(49)は「良いバッテリーがいても競り負けるという時代が続きましたが、試合後半のここぞの場面でタイムリーが出るようになりました」と語り、その理由として「トレーニングの効果」を挙げる。 これこそが一つ目の刺激だ。大分舞鶴は歴代監督にOBが多く、平成になってからも7割以上の期間がそうだった。その中で継続されてきた指導方針がある。平日は授業が7限まであり、午後7時の下校までの練習時間は約2時間。強豪校に対抗するため、限られた練習時間を技術の向上に集中させてきた。 だが、大分上野丘出身で、母校の監督や大分県高校野球連盟理事長などを務めた河室監督は大分舞鶴を、「終盤の疲れでプレーの精度が落ちて勝ちきれない」と見ていた。人事異動で大分舞鶴の監督に就任すると、体作りに注力。年間を通してトレーナーを週1回呼び、練習の最後に体幹や下半身を鍛えさせた。同時に、大分県栄養士会の指導で選手個々の食事メニューも見直した。 ◇選手起用、シビアに 貴重な練習時間の一部を思い切って割く形となったが英断だった。体重がチーム平均で5キロ以上増え、入学時から10キロ増えた3番打者の都甲陽希(とごう・はるき、2年)は「打球の飛距離と速度が上がりました」と話し、打線は要所での勝負弱さが薄らいだ。投手のレベルアップにもつながった。入学時は目立たなかった右腕の奥本翼(2年)は「下半身が太くなりました。体の動かし方も分かって体重移動がスムーズになりました」と言う。体重が10キロ以上増え、球速は約20キロ上がってエースに成長した。 もう一つの刺激は試合で与えられた。引き分け再試合となった大島戦の1試合目。起死回生の同点中越え二塁打を放った児玉陽悠(ひゆう、1年)は、3打席無安打だった1番打者に代わって途中出場していた。交代選手が活躍する場面が多く、土居コーチは選手起用に「シビアさ」を感じている。「同窓生の仲が良いことで有名な学校ですから、ずっと付き合いが続きます。いろんなところに遠慮もあって、これまでは勝負に徹しきれない場面もあったかもしれない。その点、河室さんは調子が悪ければスパッと代える。勝負師ですね」。選手の関係者にOBがいると生まれる可能性もあるしがらみ。それと無縁の指揮官は合理的な采配で好結果を生んだ。 自身も甲子園は初めてとなる河室監督は「初出場でなにもできなかった、とならないように、とにかく萎縮させない」と意気込む。チームを進化させた「外様」監督は、初舞台で選手が本領を発揮できるように万全を期す。【吉見裕都、写真も】=つづく