パーキンソン病闘病中に吉報で涙 元祖ファイブツールプレーヤー、デーブ・パーカーが殿堂入り
1980年以前に野球界に貢献した人物を対象に、米野球殿堂選出を検討する「クラシックエラコミッティー」は8日(日本時間9日)、デーブ・パーカー氏(73)とディック・アレン氏(故人)を選出した。16人の投票のうちパーカー氏が14票、アレン氏が13票を獲得。殿堂入りに必要な75%の得票率をクリアして殿堂入りを果たした。 私はアレンのプレーは映像でしか見る機会はなかったが、パーカーのことは幸いにも取材したことがある。1979年に日本で行われた米米野球、すなわちア・リーグとナ・リーグの選手が戦ったシリーズをカバーし、来日したパーカーの勇姿を見た。11月13日のナゴヤ球場。5回に逆転3ランを右翼上段に叩き込んだパーカーは、6回には中堅フェンスまでの118メートルに加え、5・1メートルのバックスクリーンを越える特大2ランを放って日本のファンを驚かせた。「我ながらよく飛んだね」と試合後語っていた。 1977、78年と2年連続首位打者。78年には、頬に死球を受け骨折し、球界では初めてフットボールのフェースガード付きのヘルメットで登場するなど話題に事欠かなかった。ニックネームは「コブラ」で、打席に立つと相手投手に恐れられたことから付いた名だったが、言い得て妙でもあった。 パイレーツを始め計6球団で、全盛期は右翼手、晩年はDHとして活躍した196センチ、104キロの巨漢選手。右投げ左打ちで、球史の中でいつも語られるのが1979年、シアトルのキングドームで開催されたオールスター戦だ。「2番・右翼」で3打数1安打、犠飛で1打点を挙げただけだったが、終盤に強肩による2つのプレーで魅了した。7回は三塁打を狙った走者を、8回には右前安打で本塁を狙った走者を、それぞれ持ち前の強肩で刺し、ナ・リーグを勝利に導いて球宴史上初めて守備の活躍でMVPに輝いた。ナ・リーグを指揮したドジャースのラソーダ監督は「あんなプレーをやってのけるのだから、彼を最後まで起用していたんだ。延長20回までやっても引っ込めないよ」と、ヒーローを称えた。 同年、パイレーツはワールドシリーズに進出。殿堂入り一塁手ウィリー・スタージェルの活躍もあり、オリオールズ相手に1勝3敗から3連勝して8年ぶりのワールドチャンピオンに輝いた。1989年にはDHとしてアスレチックスでも世界一を経験したパーカーは、通算2466試合に出場、2712安打、339本塁打、打率2割9分で154盗塁。オールスター戦7度、ゴールドグラブ賞3度。送球で刺した数は1977年の26を始め、1867試合の外野出場で通算143。ちなみに2365試合外野手として出場したイチローは123補殺だったことを見れば、パーカーが若き日の強肩ぶりはメジャー屈指だったことがわかるだろう。現役時代、「私は一塁まで小走りに走ったことはなく、何時も全力プレーを心がけたファイブツール・プレーヤーだった」と自慢していた。 そんなパーカーがパーキンソン病を発症したのは2012年。その事実を私が知ったのは2019年のMLBネットワークのドキュメンタリーだった。最初は年に一度の身体検査で医師だけが気づいた変化だった。「私の手が少し震えていたので、彼(医師)はそれに気づいて『それはどれくらいからですか?』と聞いてきた。私は『約6週間』と答えた。すると彼は『あなたはパーキンソンを少し罹っているように見える』」と言った」という。その後、闘病生活に入っている。 殿堂入りの知らせを受けたパーカーは「この知らせを待ち続けていた。私は数分間だったが、泣いてしまった」と喜びを語っていた。米時間、来年7月27日にニューヨーク州クーパーズタウンで行われる野球殿堂のセレモニーに出席出来るかどうかはまだわからないようだが、出席した際に、全米野球記者協会投票での殿堂入りが確実視されるイチローとともにどんなスピーチをするのか。そして、殿堂入りに飾られる額のキャップをパイレーツにするのか、アスレチックスにするのかも注目したい。 (蛭間豊章=ベースボール・アナリスト)
報知新聞社