【光る君へ】「清少納言」はこき下ろして「和泉式部」はそこそこ褒める 紫式部の政治的理由
キサキの争いで彰子に圧勝していた定子
清少納言のなにを具体的に指しているのかはわからないが、ともかく一刀両断にし、さらには彼女の行く末についてまで、まるで呪うように断じている。冒頭に記した『光る君へ』の場面との整合性を考えると、あの場面は寛弘6年(1009)のこととして描かれていたから、それを受けて紫式部は、清少納言への反感をいだくことになった、ということか。 だが、それにしては言葉がキツイ。ヒントは、冒頭で紹介した場面の清少納言のセリフにある。「私はいかなる世となろうとも、皇后定子さまの灯を守り続けて参ります」という言葉である。 平安時代の宮廷社会では、後宮の主であるキサキたちはたがいに争った。だれがどれだけ天皇の寵愛を受けるか、という争いだった。その点では、一条天皇が異常なほど寵愛した亡き皇后定子に、中宮彰子はまったく敵わなかった。定子は道長の長兄の道隆が、自身が天皇の外祖父になることをねらって送り込んだ、いわば「政略結婚の道具」だった。ところが一条天皇と定子は、当時としては異例の「純愛」と呼ぶべき熱愛関係になった。 その関係は、定子の兄弟の藤原伊周と隆家が、花山法皇を射かけるという事件を起こして流罪になり、その騒動のなかで定子が衝動的に出家しても変わらなかった。公卿たちから白い目で見られても、一条天皇は定子が数え24歳で急死するまで寵愛し続けた。定子はどんなに紆余曲折があっても、キサキたちの争いに勝利し続けたのである。 一方、道長が入内させた長女の彰子は、入内した当時は数え12歳(満年齢は10歳程度)で、事実上の子供だったから、定子の相手にならなかった。ただ、彰子が入内して1年あまりで定子は急死したが、そこに立ちはだかったのが『枕草子』だった。
キサキの寵愛争いの延長としての清少納言批判
清少納言が定子の後宮に宮仕えをした7、8年間のことを叙述した『枕草子』の特徴を、伊井春樹氏はこう書く。「清少納言は中宮定子を賛美し、現実の世に迫って来る厳しく追い詰められた姿は描こうともせず、明るい話題に転じるのが自分の任務と考えていたようである。(中略)むしろ悲しい現実から目を背け、定子の賛美を書き留めることが、自分の女房としての責務であるとしていたのであろう」(『紫式部の実像』朝日選書)。 それがたちまち宮中で評判を呼び、多くの宮廷人が、読むたびに華やかで知的だった定子の後宮を思い出すことになった。それは、彰子の後宮を盛り上げたい道長にとっては、大きな障害となった。 だからこそ道長は、文学には文学で対抗しようとしたと考えられる。文才があると評判だった紫式部に物語を書かせ、それを彰子の後宮に置いておけば、文学好きの一条天皇は物語への興味から彰子の後宮に通うようになり、ひいては彰子への寵愛と皇子の出産につながるのではないか。そういう算段である。 『紫式部日記』によると、紫式部が出仕したころの彰子の後宮は、地味な気風で、『枕草子』に描かれた定子の後宮が、廷臣たちの華やかな後宮に彩られているのとは対照的だったという。だからこそ、『枕草子』に描かれた定子の後宮が、いつまでも追憶として宮廷社会に生き続けることになったのだろう。 それは道長にとっても、道長の意を受けて彰子の後宮を盛り立てたい紫式部にとっても、憂うるべき状況だった。だからこそ、紫式部は清少納言のことをこき下ろし、彰子の後宮の価値を定子の後宮との対比において、相対的に高めようとしたのだと思われる。