【光る君へ】「清少納言」はこき下ろして「和泉式部」はそこそこ褒める 紫式部の政治的理由
紫式部との関係が対照的な二人の才女
『源氏物語』を読んだというききょう(ファーストサマーウイカ、清少納言のこと)が、中宮彰子の後宮にまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)を訪ね、感想を伝えた。ほめられてまんざらでもないまひろだが、「ききょう様のように才気あふれる楽しい方が藤壺(註・彰子の宮廷)にいらしたら、もっと華やかになりますのに」と伝えると、ききょうの表情が変わった。NHK大河ドラマ『光る君へ』の第38回「まぶしき闇」(10月6日放送)の、冒頭の場面である。 【画像】“大河”劇中とはイメージが変わる? 「彰子」を演じた見上愛
彼女はきっぱり「それはお断りいたします」と述べ、次のような言葉を継いだ。「私は亡き皇后定子様のお身内をお支えするために生きております。(中略)私はいかなる世となろうとも、皇后定子さまの灯を守り続けて参ります。私の命は、そのためにあると思っておりますゆえ」。 そして、まひろになぜ『源氏物語』を書いたのかと問うて、「もしかして、左大臣様(註・道長)にお頼まれになったのですか。帝の御心から『枕草子』を消してくれと。亡き定子様の輝きをなきものとするために」と質し、激しく言葉をぶつけた。「私は腹を立てておりますのよ、まひろ様に。源氏の物語を恨んでおりますの」。 清少納言のほうから激しく火花を散らし、二人の関係に大きな影が差したと伝わる場面だった。一方、訪ねてきた藤原道長(柄本佑)に、まひろが「藤壺の人気者になりそうな女房でしたら、いい人がおりますわよ」と伝える場面もあった。こうしてまひろが推薦し、彰子の後宮に採用されたのは、あかね(泉里香、和泉式部のこと)だった。 紫式部とこれらの二人の女房との関係は、どうだったのだろうか。
清少納言をこき下ろした紫式部
まず清少納言だが、紫式部と清少納言が対面したと書かれている史料は存在しない。だからといって、二人のあいだに直接の交流がなかったとは言い切れないが、『光る君へ』で描かれている二人の行き来はフィクションである。しかし、それは二人がおたがいのことを知らなかったという意味ではない。 紫式部は清少納言のことを『紫式部日記』に書き記している。『紫式部日記』は藤原道長の依頼で、中宮彰子の出産を記録するために書きはじめられたと思われ、寛弘5年(1008)から同7年(1010)までの宮中の様子を記した日記と手紙で構成されている。 『光る君へ』では、清少納言が紫式部を責め立て、紫式部が戸惑ったように描かれた。しかし、『紫式部日記』では紫式部が清少納言のことを、次のように口ぎたないくらいに罵っている。 「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ」 これを現代語にすると、ざっと次のような内容である。 「清少納言こそ、得意顔で偉そうにしていた人です。あんなに利口ぶって漢字を書き散らしていますが、よく見ると、まるで足りていない点が多い。こんなふうに人に勝ろうとする人は、必ず見劣りして、将来は悪くなるばかりで、風流気取りが染みついた人は、まったくつまらないときでも情緒があるふりをして、趣があることは見逃すまいとするうちに、誠実でない軽薄な態度になってしまいます。そんな人の行く末は、どうしてよいことがあるでしょう」