禁門の変 西陣の油店に今も残る長州勢の傷跡 誠の足跡 新選組を行く
禁門の変後に長州勢への探索が厳しさを増す中、福井も大津へ逃れたが、新選組によって捕縛され、元治元年11月に獄死した。
弓場は子孫に引き継がれ、現在は6代目の森浩之さん(59)が守る。武士の鍛錬から発展した弓術は戦いの手段の一つ。微妙な力加減など技術がないと難しく、弓道経験者でも的に当てることは難しいという。この弓場では客は座ったまま大弓(長さ2・2メートル)で14メートル先の的を狙う。武士が馬上から弓を引く騎射スタイルだが、関係者は「詳細は不明だが、情報を交わす際に座った方が不自然でなかったのかもしれません」とも語る。
だめ押しともいえる禁門の変での敗退は、長州藩に大きな打撃を与えたが、その後は対立していた薩摩藩との同盟締結に動いていく。薩摩藩は京都で政治・経済を握り、当時「薩摩が動けば時代が動く」といわれていた存在だ。
木村さんは指摘する。
「禁門の変は長州藩にとって戦うだけではだめだと気付き、それまでの武力から知略へと発想を転換する契機となった」
園山大弓場は平日午後1~7時、土日・祝日午前10時~午後7時で、事前予約が必要。
■幾多の戦火越えた店守る
禁門の変では、会津兵が長州兵掃討のために、長州勢が幕府軍攪乱(かくらん)のためにそれぞれ火を放ったとされ、京の街は3日間燃えて3分の2が焼失した。
「うちの場合は堀川通で火が止まり、一帯は残ったようです」。約200年前から店を構える山中油店の浅原孝社長は語る。
もともと、京都には主に神社仏閣の灯明用の油を量り売りする油店が先の大戦前には200軒ほどあったが、現在では京都でも山中油店のみ。食用、建材用、美術用と幅広い油を扱う。
浅原さんによると、山中家は油の商いの一方で、不動産で財を成した。かつては維持管理に莫大(ばくだい)な費用がかかることから、明治政府によって売りに出された二条城の購入を打診されたこともあったほどだという。
店頭には昭和20年6月26日に起きた西陣空襲の爆弾の破片が展示されている。この破片は米爆撃機B29により、山中油店の北隣にある寺の井戸に落とされ、同店敷地内に飛び込んできたものだという。