禁門の変 西陣の油店に今も残る長州勢の傷跡 誠の足跡 新選組を行く
元治元(1864)年旧暦7月に起きた禁門の変。その直前、尊王攘夷派の浪士を襲撃した池田屋事件で名を上げた新選組にとって、その実力を存分に発揮する出来事となった。一方、前年の八月十八日の政変で都を追われた尊王攘夷急進派の長州藩にとっては起死回生をかけて挑み、その後方針を転換するきっかけとなった。 ■敗走する長州勢 京都御苑の西約1・2キロ、西陣地区の南端に位置し、下立売(しもだちうり)通沿いに建つ「山中油店」。国の登録有形文化財でもある店舗入り口脇の一角に、禁門の変の際に長州藩士がつけた刀傷(幅3センチ、長さ15センチ)が残る。 当時、朝廷は幕府との公武合体を推進していた。文久3(1863)年の八月十八日の政変で、会津藩と薩摩藩は尊王攘夷急進派だった長州藩と三条実美(さねとみ)ら七卿を京都から一掃。長州勢が攘夷と藩主、七卿の復権を天皇に直訴するため、3千人を率兵して起きたのが、禁門の変だった。 「普段は閉ざされていた開かずの門。現在は西向きだが、当時は南向きだった。江戸期の大火の際、珍しく開かれたため、焼けて口を開くハマグリに見立てて『蛤御門』の名で親しまれた」。同行する幕末維新史研究家、木村幸比古さん(76)は説明する。 御所を守る幕府側は会津、薩摩を主力とする諸藩兵8万人。新選組も出動を命じられた。長州勢は蛤御門へ猛攻をかけて激戦となったが敗走した。 山中油店の刀傷は、その際のものだとされる。「一帯の商家は戦になるからと戸を閉めていたため、水を欲しがった藩士の一人が怒ってやったそうです」。禁門の変から数十年さかのぼる文政年間に創業した同店の浅原孝社長(67)が160年前の事実を明かす。 ■苛烈な残党狩り 幕府側は長州兵掃討に乗り出し、新選組も天王山(京都府大山崎町)の掃討戦で真木和泉守ら長州勢の主力だった17人を自決に追い込んだ。木村さんは「新選組にとって隆盛の時期であり、残党狩りは苛烈を極めた」と語る。 祇園・八坂神社に隣接する円山公園内にたたずむ弓術道場「園山大弓場(えんざんだいきゅうじょう)」も、そのあおりを受けた。開設者は長州藩京都屋敷詰の元藩士で、尊王攘夷派の梅田雲浜らと親交があった福井元造(もとぞう)。文久2年に弓場を始めたのは、日置流弓術の免許皆伝を受けていただけでなく、同志らの連絡場所として使う目的もあったようだ。