「銘菓・玉椿」を喜代姫の輿入れで用意した、姫路藩の名家老・寸翁の思い
春を告げる「玉椿」に込められた万感の思い
宝暦5年(1755)、同情の声が大きかった川合家に配慮してか、宗見が書院番に召し出されて家名を再興。次第に加禄のうえ地位を高めて、ついに安永7年(1778)、父の旧禄1000石とともに家老の地位を回復するに至った。その出世の過程の明和4年(1767)に誕生したのが、嫡男の道臣(ひろおみ・みちおみ)である。天明7年(1787)に宗見が病死すると、21歳で家老職を引き継ぐ。 家老となった道臣を待っていたのは、天明の大飢饉(1783-1787)によって疲弊した領地の復興と、またもや窮することとなった藩財政の再建であった。しかし、改革を進めようとした矢先の寛政2年(1790)、後ろ盾であった姫路における2代目藩主・酒井忠以(ただざね)が没し、保守派からの反発が高まるなかで、道臣は失脚させられる。 とはいえ、3代目藩主・忠道(ただひろ・ただみち)の時代となっても財政の立て直しはいかんともしがたく、文化5年(1808年)には、藩の借金は歳入の4倍を超える73万両に達し、その支障は藩主家の日常生活にも及んだ。道臣は忠道によって再度登用され、藩政改革に臨むことになる。 壮年となった道臣は、20年近い空白期間に知識と行動力を蓄えていたとみられ、以後、数々の改革に進めていく。質素倹約。新田開発。義倉「固寧倉(こねいそう)」の設置。この倉の穀物は飢饉の備えとなるだけでなく、平時は領民に低利で貸し付けられた。 製塩、朝鮮人参栽培などの商品開発。そして、物流拠点である飾磨津(しかまづ)の整備などである。それでも、莫大な借財の返済のためには、大胆な決め手となる対策が必要であり、そのために道臣が着目したのが、姫路木綿であった。 加古川・市川流域で栽培される綿を素材に、藩内で織ってさらして生産される木綿布は、色が白く薄地で肌触りがよいことから、江戸で「姫玉」「玉川晒(さらし)」と呼ばれて好評を博した。しかし、その流通は大坂商人によって独占され、思うほどの利益につながらなかった。この姫路木綿を藩による専売体制のもとに置くことを、道臣は考えたのである。 この前例のない計画を実現するために、姫路藩は江戸において早くから調査と働きかけを進めた。なかでも強力な後押しとなったのが、藩主の嫡男・忠学(ただのり)と、時の将軍・徳川家斉(いえなり)の娘・喜代姫との婚約であった。文政5年(1822)、この婚約の成立にあわせて、江戸町奉行所に問屋への藩の木綿専売を認めさせることに成功。利益を喜代姫の化粧料にあてるという名目であった。 道臣は城下町内の綿町に、すぐさま御国産木綿会所を設け、綿の栽培から綿布の生産加工・流通までを藩の管理下に置く体制を整え、早くも1年後に藩による専売を実現する。江戸の大店に卸された姫路木綿は年間300万反に及び、売り上げは24万両余の正金銀となった。藩の負債は7、8年で完済されたという。 この多大な功績の証として、道臣は先祖の姓「河合」への改姓が認められ、また、晩年、茶人でもあったことから「寸翁」の号を名乗った。現在では、河合寸翁の名で地元の偉人として親しまれている。 さて、姫路銘菓「玉椿」の話である。天保3年(1832)、喜代姫の姫路への輿入れは、寸翁にとっても人生のハイライトであったことだろう。これに先立って寸翁は、城下の菓子商にある依頼をしたという。以下は、元禄15年(1703)創業の老舗で酒井家御用菓子司も務めた「伊勢屋本店」の代表取締役社長、山野芳昭さんにうかがった話である。 「喜代姫さんに姫路に嫁いでもらうにあたって、河合寸翁さんから当店に、江府(江戸)・洛中(京都)に劣らぬ、姫路が誇れるお菓子を作れという命がありました。当時、伊勢屋新右衛門という職人がいたのですが、その者を江戸に修業に出し、金沢丹後大橡(だいじょう)という屈指の菓子司のもとで学ばせました。そうして新右衛門が持ち帰った上生菓子のなかで、寸翁さんが一番気に入ったのが、薄紅色の求肥で黄身餡を包み、椿の花に見立てたお菓子でした。その『玉椿』という名前も、寸翁さんに命名していただいたと伝えられています」。 「玉」の語には姫路木綿「姫玉」の意が掛けられているという。そして、「椿」は春の訪れを告げる花。苦難とともにあった姫路藩主家の春、そして、大きな変転を経ながらも自らの家の春を迎え得たこと......。この銘菓には、それらへの寸翁の思いが込められているように思える。「玉椿」が生まれてから、すでに約200年。味、かたち、製造法とも、できるかぎり昔のままで変えないようにしているという。心して味わいたい。
兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)