世界で戦った青木功のプロゴルフ人生60年:「金じゃない、人がやってないことに挑戦したかった」
プロテスト合格から初優勝まで7年かかった
ここから現役時代を振り返っていく。青木が、埼玉県の大宮ゴルフコースで行われたプロテストに合格したのは21歳の時だったが、ゴルフ場でキャディの仕事をしていたものの、プロを目指していたわけではなかったという。 「中学時代に野球をやっていて、野球で高校に進めるはずが、中学3年の最後の大会で、2アウト1、3塁でキャッチャーがパスボールして2対1で負けちゃった。県大会に行けないから先の道を閉ざされてしまい、頭に来て野球道具を捨てたんだ。そのことでオヤジと喧嘩(けんか)になって、『お前なんか勝手に自分で生活しろ』って言われたから家を出た。前々から近所の人に『ゴルフ場でキャディやったら稼げるぞ』って聞いていたから、林由郎さんが所属ヘッドプロだった東京都民ゴルフ場で世話になった。1年後には千葉の我孫子ゴルフ倶楽部に移ったけど、まだその時はプロになろうとは思ってなかったの」 「金がないから、小遣い稼ぎですよ。だけど昭和36年の日本プロゴルフ選手権に林さんが勝って、優勝賞金で30万円もらったって聞いたのよ。おお、あの小さいオヤジが30万円もらえるなら、自分はデカイから50万円稼げるんじゃないかと思った。それでやってみるかとなってさ。今なら笑っちゃうけど、自分はその時そう思ったわけ」 1回目のプロテストは1ストローク足りずに落ちた。我孫子から埼玉県の飯能ゴルフクラブに移り、22歳、2回目でようやく合格したものの、すぐに勝てるようになったわけではない。予選落ちが続き、初勝利は7年後の28歳の時、横浜カントリークラブで開催された『関東プロ』だった。 「プロになってゴルフ場の給料が1万5000円から3万5000円になった。貧乏だったのが金持ちになったような気分だよ。それでクラブ所属のプロとして2、3年たった頃、先輩プロから『お前、プロだ、プロだって言うけど、試合出なきゃプロじゃないよ』と言われた。ああ、そうか、じゃあ、分かった、やるよとなって。だけどなかなか勝てない。それでトレーニングを始めた」 「神奈川県の湯河原のゴルフ場に、20万円持って、この金がなくなるまで泊まり込みでトレーニングをやらせてほしいと頼みに行った。1カ月たった頃、もうお金も尽きただろうと思ったら、支配人が『まだ大丈夫だよ』って言うんだ。支配人は自分がコースを回るだけだと思っていたらしい」 「ところが自分は毎朝5時頃起きてコースを走っている。コース課の人がそれを見て伝えてくれていたんです。20万どころの話じゃない、30万、40万かかっているはずだよ。それを『やる気があるなら納得いくまでやれ』って言ってくれた。そのおかげでようやく優勝できたわけです。これまですいぶん数多くの試合で勝ってきたけど、今、振り返ってみて一番うれしかったと思うのは、やっぱり初優勝ですよ」