世界で戦った青木功のプロゴルフ人生60年:「金じゃない、人がやってないことに挑戦したかった」
『世界マッチプレー』で確信に変わった
その後は順調に勝ち星を積み重ね、ジャンボ尾崎としのぎを削る「AO時代」が到来する。初めて国外でプレーしたのは26歳の時。東南アジア4カ国を回るアジアサーキットに参戦し、海外の試合に関心を持つようになったという。1973年に国内メジャー『日本プロゴルフ選手権』の優勝を含め年間6勝を挙げると、翌年の4大メジャー『マスターズ』ほか、海外の試合からも招待を受けるようになった。主戦場を海外に移そうと思ったきっかけは何だったのか。 「転機といえば、78年にイギリスのウェントワースで開催された『世界マッチプレー』に優勝したことですよ。勝ったことで、これならアメリカでもどこでも勝てるかもしれないなと思った。79年、同じコースで行われた試合で、ビル・ロジャースに負けて2位だったけど、『なんだ、やればできるんだ』と今度は確信に変わった。だから80年の『全米オープン』でジャックと戦えた。負ける気がしなかったですからね」 1980年開催の4大メジャー『全米オープン選手権』では、青木は帝王ニクラスと4日間、同組で回り、一騎討ちとなって最終ホールまで決着がもつれた。惜しくも敗れたが、当時、日本人メジャー最高位の2位。開催ゴルフ場にちなみ『バルタスロールの死闘』と呼ばれ、伝説の名勝負として語り草になっている。83年には『ハワイアンオープン』で日本人初の米ツアー優勝を果たした。 「80年代、賞金総額など日本のゴルフのマーケットが世界1だった時代があった。自分はその頃にはアメリカで転戦するようになっていて、セベ(バレステロス、スペイン出身の名手)に『なんでこんなにでかいマーケットがあるのに、アメリカに行くんだ。稼ぐのなら日本でやったらいいじゃないか』と言われたことがある。だけど自分は金じゃないんだよ。人がやってないことに挑戦したかった」 「今みたく海外に簡単に行ける時代じゃなかったし、乗り継ぎも食事もとにかく大変だった。それでもスポンサーに頭を下げてチャレンジしたし、日本のファンの皆さんをガッカリさせてはならないと、トップ10は最低限の条件と自分に約束して転戦した。もちろん、同じ人間がやることだからアメリカでもどこでも自分は絶対負けないという気持ちも強かったんだ」