初詣で大賑わいだが…京都「八坂神社」でご利益が得られるのか 不安になる歴史的理由
明治になるまで名前も違った
八坂神社(京都市東山区)といえば、現在は日々外国人観光客でごった返し、正月は初詣客でさらに人があふれる、京都でも屈指の観光スポットとして知られる。地元では「祇園さん」と呼ばれ、実際、祇園祭(祇園会)の胴元だが、祇園の近くにあるから「祇園さん」と呼ばれる、という程度に思っている人も多いのではないだろうか。 【写真を見る】もしも残っていたならば…戦災で焼けた「7棟の天守」を振り返る
主祭神は神話に登場する素戔嗚尊(スサノオノミコト)で、その后の櫛稲田姫命と、二人のあいだに生まれた御子も祀られていると聞けば、その信仰にも歴史と由緒があると思う人も多いのではないだろうか。実際、素戔嗚尊は人々を苦しめる大蛇(八岐大蛇)を倒して櫛稲田姫を救ったため、厄除けのほか、縁結びや美容などにご利益があるとされている。 こうした縁起を読んで、年の初めは伝統ある祭神にお参りしてご利益を、と考えるのは自然だと思う。だが、八坂神社の歴史をさかのぼればさかのぼるほど、果たして、これで想定したようなご利益が得られるものなのか、と不安になるような事実が隠されている。 実際、慶応4年(のちに改元して明治元年、1868)までは半ば「寺」で、その名も「祇園社」もしくは「祇園感神院」「観慶寺感神院」などと呼ばれ、主祭神も違ったのである。
とりわけ神仏習合色が濃い寺社だった
「八坂神社」と改称される4年前の元治元年(1864)に編纂された『花洛名勝図会』に描かれた祇園感神院の境内には、多数の寺院建造物が確認できる。要は、ここは明治維新を迎えるまでは、典型的な「神仏習合」の寺社だったのだ。 神仏習合とは日本土着の神道と外来の宗教である仏教を、ひとつの信仰体系としてとらえた教説で、平安時代に大きく発展した。それは「仏(本地)が民を救うために姿を変えて現れたのが神(垂迹)だ」という「本地垂迹説」で説明される。 じつをいえば、明治になるまでは、日本中のほとんどの神社に「本地仏」が定められているほど、神仏習合は盛んだった。だから、寺にも神社にもお参りする日本人が、宗教的に無節操なように語られることがあるが、これは歴史的にも自然なことなのである。それはともかく、祇園感神院はとりわけ神仏習合色が濃い寺社だった。 歴史については諸説あるが、貞観18年(876)に奈良の僧の円如が観慶寺を創建したという説が有力で、同じ年に祇園神が近くに降り立って「垂迹」したことになっている。 境内の本地堂である薬師堂には、平安時代に造立された薬師如来像のほか、両脇侍の日光月光菩薩像、十二神将像などが安置され、観音堂には十一面観音立像や夜叉神明王像などが置かれていたという。そして、「本地」が薬師如来だとされる牛頭天王が祭神として祀られていた。