初詣で大賑わいだが…京都「八坂神社」でご利益が得られるのか 不安になる歴史的理由
消えた牛頭天王
牛頭天王とは、インドの釈迦由来の聖地である祇園精舎の守護神とされ、除疫神(疫病を抑える神)として信仰されてきた。祇園社の御霊会、つまり祇園祭とは元来、夏に流行しがちな疫病を鎮めるために行われるようになったものだが、それは除疫神である牛頭天王が祭神だったからこそ、疫病を鎮めてくれるという功徳が期待されたのである。 この牛頭天王は、現代人にはあまり馴染みがないが、明治を迎えるまでは非常に一般的な祭神だった。東京都品川区の再開発地区である天王洲アイルや、明智光秀が羽柴秀吉に敗れた天王山をはじめ、全国には「天王」とつく地名が多いが、そのほとんどは牛頭天王に由来している。そして全国に、牛頭天王を祭神とする祇園社があった。 ところが、明治が神仏分離を強要した結果、それらはことごとく名称変更を強いられてしまった。神仏分離とは、天皇を神格化し、その権威にあやかろうとした明治政府が、神道を国教化して保護し、仏教は抑圧するために打ち出した政策で、これによって伝統的に神仏が集合して成立していた日本の寺社は、いずれも徹底的な改変を強いられた。 まず、慶応4年(1868)3月17日、社僧還俗令が出されると、祇園感神院では、神社に所属しながら僧形で仏事を執り行っていた社僧が全員、還俗させられ、彼らの宿坊もすべて破壊された。続いて3月28日に神仏判然令が出されると、仏教由来の名を神号とすることも、神社に仏具などを置くことも禁じられた。 すでに述べたように、牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神なので、それを祭神として祀り続けること自体が、明治政府の命に反することになった。しかも、「祇園」という名称自体が仏教由来なので使えなくなってしまったのである。
強引に入れ替えられた主祭神
結局、その年の5月に、所在地の古い地名である「八坂」を使って、八坂神社と改称することに決まり、新政府の許可も下りた。 むろん神仏分離であるから、寺としての感神院は廃寺になった。そして、本殿の西隣に建っていた薬師堂のほか、観音堂などの寺院建築はみな取り壊され、鳥居に掛けられていた小野道風筆の「感神院」と書かれた由緒正しい扁額も降ろされてしまった。仏具などは多くが廃棄されたが、薬師如来像や十一面観音立像などの仏像は、浄土宗の大蓮寺に移され、鐘堂の鐘は浄土宗の大雲院に引きとられた。 加えて、長く祭神とされてきた牛頭天王も排除され、牛頭天王が本地だとされる神話上の神、素戔嗚尊に替えざるをえなくなった。そして、この祇園社からはじまって、疫病を除けてくれるとして全国に広がっていた牛頭天王信仰も、消滅することになった。ということは、牛頭天王に疫病退治を祈願する祇園祭も、それ以降はきわめて形骸的なものになってしまっている、ということになる。 民俗学者の畑中章宏氏は、興味深い説を記している。「牛頭天王が神仏習合令の矢面に立ち、尊格が隠蔽され、神仏習合の施設から、神社に変更された理由についてひとつの仮説が考えられる。それは『天皇』と『天王』が音を同じくするからというものである。維新政府は、天皇を中心とした国家形成をはかるにあたり、疫病除けの尊格として、民間に絶大な人気を誇った牛頭天王が目障り、耳障りだったのではないだろうか」(『廃仏毀釈』ちくま新書)。さもありなん、と思う。