喧嘩の弱い、遊びを知らない「優等生」の話など誰も聞きたがらない…新聞・テレビの「正論」が皆つまらない理由
■遊んでいないやつはつまらない つまり、〈遊び〉が〈仕事〉になる。 これはもう革命的にすごい事態なんです。 さて、音楽が〈仕事〉になってしまうと、〈遊び〉のポーションが少なくなる。だから、新しい〈遊び〉を始めるんです。 わたしの場合、それが映画だったり、文学だったり、落語、浪曲、講談のような話芸だったりします。絵画や写真、立体アートもそうでした。一時期、集中的に写真展ばかり見にいく。写真家と付き合うようになる。そんなのも〈遊び〉です。なぐさみであり、余裕、ゆとりですね。 〈勉強〉をしていないライターは、枯れます。〈仕事〉ばかり、つまりアウトプットばかりしてインプットしない人間は、それがどんな職種であれ、枯れるだけです。出せば、なくなる。簡単な物理法則です。 一方で、遊んでないやつは、つまんない人間になります。つまんないライター、おもんない職業人になります。 わたしの生家はとても貧しかったんです。父親はいちおうタクシー運転手だったけれど、本職はもはやギャンブラー。競馬、競輪に丁半ばくちと、なんでもやっていた。かなりブラックなところにも出入りしていたようです。莫大な借金を背負っていた。 だから母親は料理屋とかで働きづめ。男ばかりの三人兄弟だったんですが、小学生のころから両親共働きで、夜に大人が家にいない。たいへんよろしくない家庭環境だった。 ■不良の話はどこか面白い わたしは三人兄弟の真ん中で、兄も弟も、たいへん荒れていました。不良でした。喧嘩も強かったみたいで、親の知らないところで、警察のごやっかいになっていました。わたしは小さいころから本を読んでいたので、危ういところでそっちの世界に行かないですんだ(すんだのかなぁ?)。 本を読んでいたから、学校の成績はそこそこよかった。だから、わたしだけには部屋があてがわれていました。母屋の二階にある古い貸間の一室を勉強部屋にしていた。トイレは和式の共同だし、風呂なんてありません。いまはどこにもないような、木造の貧乏アパート。 しかし、そこには親がいないから、悪い仲間が集まってくる。とくに一歳違いの兄の代には不良がそろっていて、近隣の中学校でも有名な悪(わる)たちだったんです。 わたしが中学に入ると、その不良たちが、中間試験や期末試験の前に、わたしの部屋にやってくる。「みんなで試験勉強する」とか言って。勉強なんかするわけないです。いろんなものを、飲んだり、吸ったり、キメたりしている。 わたしからすればみんな先輩なんで、文句も言えないわけです。仕方ないからみんなと一緒に、キメはしなかったけど、話は聞いていた。 で、その、不良たちの話がおもしろいんですよ。 「シモキタにむちゃくちゃやばいやつがいて……」 「五反田で不良グループが結成されて……」 たいていは子供らしい喧嘩自慢、ワル自慢で、誇張も大きにあったんでしょう。でも、それがいまで言うところの、ギャングスタ・ラップみたいなんですよね。べつに真実のストリートニュースを知りたいわけじゃない。ナラティブ(叙述、話術)を楽しんでいる。 そこで気の利いたやばい話をしたり、的確な合いの手を入れたりできないやつは、不良仲間ではじかれていく。 不良の話って、おもしろいんです。それは、いろいろ悪いことをしているから。遊んでいるからです。