喧嘩の弱い、遊びを知らない「優等生」の話など誰も聞きたがらない…新聞・テレビの「正論」が皆つまらない理由
■正しいことを言うことは相手を傷つけるということ 言いたいことがあったら言ってもいい。しかし、それはチョコレートでくるめ。 映画監督のビリー・ワイルダーが語っていました。 映画は、あくまでエンターテインメント、娯楽なんだ。なによりも、観客を楽しませろ。映画の話術で、魔法にかけろ。映画館に客を呼んでこい。そうでないと、次の作品なんかないぞ。映画作りは、カネがかかるんだ。 ワイルダーはノンポリの監督などではありません。ときの権力にむかって辛辣な皮肉を飛ばしています。わたしはワイルダー監督では『フロント・ページ』がいちばん好きなんですが、あれは、共産主義者への不当な弾圧に抗議した映画です。しかし、そんなこと表に出さない。警察権力やマスメディア批判も、後景にある。でも、とにかく笑わせるんです。そのころ知識層に絶大な影響力を持っていたフロイト心理学を、散々おちょくっている。 大上段に振りかぶって、政治的演説なんかしない。エンターテインする。楽しませる。言いたいことがあったら、チョコにくるめ。 ---------- 二人が睦まじくいるためには 愚かでいるほうがいい 立派すぎないほうがいい 立派すぎることは 長持ちしないことだと気付いているほうがいい (略) 正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい 正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい (吉野弘「祝婚歌」) ---------- ■表現者にとって遊びは必須 これだと思うんです。あらゆる表現者にとってのコーナーストーンです。新聞記者、テレビ記者も、銘肝牢記(めいかんろうき)しろ。 詩を読め。映画を見ろ。音楽を聴け。落語や浪曲や歌舞伎を見にいけ。 つまり、遊べって話なんです。 遊んでないやつは、正しいかもしれないけれど、つまらないから。おもんないやつになってしまうから。 表現者にとって、〈遊び〉は必須です。表現者にとって必須ということは、現代に生きるほとんどすべての人間にとっても必須。〈仕事〉は、畢竟(ひっきょう)、表現なんですから。 そして、〈遊び〉と〈勉強〉は違う。 〈勉強〉とは、〈仕事〉に直接的に役立つものだ。しかし〈遊び〉は、〈仕事〉と関係あってはいけないんです。〈仕事〉と〈遊び〉は、遠いところにあるものでなければ、だめなんです。 ---------- 近藤 康太郎(こんどう・こうたろう) 朝日新聞編集委員 作家、評論家、百姓、猟師、私塾塾長。1963年、東京・渋谷生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、1987年、朝日新聞社入社。川崎支局、学芸部、AERA編集部、ニューヨーク支局を経て九州へ。著書に、『百冊で耕す 〈自由に、なる〉ための読書術』『三行で撃つ 〈善く、生きるための文章塾〉』(CCCメディアハウス)、『アロハで田植え、はじめました』『アロハで猟師、はじめました』(共に河出書房新社)、『「あらすじ」だけで人生の意味が全部わかる世界の古典13』『朝日新聞記者が書けなかったアメリカの大汚点』『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』『アメリカが知らないアメリカ 世界帝国を動かす深奥部の力』(以上、講談社)、『リアルロック 日本語ROCK小事典』(三一書房)、『成長のない社会で、わたしたちはいかに生きていくべきなのか』(水野和夫氏との共著、徳間書店)ほかがある。 ----------
朝日新聞編集委員・天草支局長 近藤 康太郎