なぜ千葉ロッテ・福浦和也の引退試合で「野球の神が舞い降りた」美技が生まれ勝利できたのか?
引退スピーチも福浦らしかった。 世話になった方々への感謝の気持ちに終始した。父と亡き母、そして妻と2人の子供たちにお礼を言い、最後に、「自分の叶えられなかったリーグ優勝、井口監督の胴上げを、ここにいる1軍選手と2軍選手が必ず叶えてくれると思います」と、後輩へ願いを託し、「そのためにもファンの皆さま、熱い声援を宜しくお願いいたします。幸せな野球人生でした。ファンの皆さま26年間本当にありがとうございました」と結んだ。 1993年のドラフト7位。千葉の習志野高時代は、投手で4番。甲子園出場はできなかったが投手として指名された。逆指名が導入された年で、福浦がその年のドラフトの最後の一人だったため支配下選手登録の70人目の選手という意味で背番号は「70」だった。 だが、1年目の春季キャンプでプロの練習に耐え切れず肩と肘がパンクした。その打席センスを見抜いた故・山本巧児氏に、打者転向を促され、夏に醍醐2軍監督に正式打診され、投手に未練を残しながら嫌々受け入れた。 「パワーを補うために無理やり作った体なんです」 近年、ウエイトトレーニングの常態化は珍しくないが、福浦は、入団2年目から、肉体改造に取り組み、4年目から本格化した。1軍デビューを果たしたのは、その4年目。清原和博氏と同じ型のバットを使い、イチローらトップ選手の技術を真似た。 プロ8年目の2001年に打率.346で首位打者を獲得、千葉ロッテの看板打者に成長するが、過度なウエイトトレの影響で、2007年の開幕直後に脇腹を痛め、約1か月戦線離脱を余儀なくされた。成績は自己ワースト。翌年も腰痛や首痛などの故障に苦しみ、以来、ストレッチを含めたケアの大切さ、つまり「準備力」の必要性を感じるようになった。試合前にはトレーニングルームで入念にストレッチを行い、お風呂に入って筋肉を温め、またストレッチ。打席に入る前にも、しゃがみこみ、しっかりと股関節を伸ばす。 球界屈指のバットコントロールと広角打法を生み出している秘訣は「下半身。股関節がはまってくること」と定義する。引退の日まで、その福浦スタイルが変わることはなかった。だから最後に神がかった美技が飛び出したのである。 それでも「年齢と共に体が動かなくなった。その中でなんとかしようと努力したが、こうなった(引退)。努力が足りなかったのかなと」と悔いる。