吉村順三が見たアメリカの建築。師・アントニン・レーモンドとの交流からひもとく。
アントニン・レーモンドのもとで学び、戦前から戦後にかけて何度も渡米した建築家、吉村順三。日本とアメリカで見たものが彼の建築にどう響いていたのかをひもとく展覧会『建築家・吉村順三の眼(まなざし)―アメリカと日本』が東京・江東区の〈ギャラリーエークワッド〉(主催・企画)で開かれています。監修は神奈川大学教授、京都工芸繊維大学名誉教授の松隈洋。めずらしい資料も並ぶ貴重な機会です。 【フォトギャラリーを見る】 吉村順三は1908年、東京生まれ。フランク・ロイド・ライトの〈帝国ホテル〉や17歳のときに京都・奈良に旅した経験から建築に興味を持ち、東京美術学校建築学科に入学する。18歳のとき、海外の雑誌に掲載されていたアントニン・レーモンドの自邸〈霊南坂の家〉を探しあて、彼と知り合いだった叔母の紹介で、レーモンドの事務所でアルバイトを始める。1931年に大学を卒業すると正式にレーモンド事務所に入所した。
吉村の師となったアントニン・レーモンドはチェコ出身。1919年にフランク・ロイド・ ライトの助手として〈帝国ホテル〉建設のため来日し、1922年に独立して東京に事務所を開く。が、第二次世界大戦前の日米間の関係悪化に伴い1937年にアメリカに戻り、東海岸フィラデルフィア郊外のニューホープに居を構える。
吉村は1940年にレーモンドの要請で渡米、彼のもとで〈斎籐博駐米大使記念図書室計画案〉や〈モントークポイントの家〉などを担当した。レーモンドが改修した自宅兼事務所〈レーモンド・ファーム〉も訪れ、襖や障子の調達に協力している。あわせてアメリカの民家などを精力的に見てまわった。翌年夏、開戦直前の日本に戻った吉村は自身の事務所を開設する。
戦後、吉村はたびたび渡米して〈松風荘〉〈ジャパン・ソサエティー〉などを手がける。あわせて日本でも〈軽井沢の山荘〉や〈国際文化会館〉(前川國男、坂倉準三と共同設計)、住宅など多くの作品を残した。