小笠原の電撃引退と柴崎岳が持っていた「リストバンド」
別世界にいた憧れのアイドルから、一挙手一投足を日々感じられる身近な目標へ。距離が一気に縮まるとともに、立ち居振る舞いにも同じ雰囲気を漂わせるようになった。決して冗舌ではない。だからこそ、必要なときには背中で語る。寡黙な分だけ、小笠原のように感覚を研ぎ澄ませてきた。 「満男さんは試合や練習における、緩い空気といったものを察知するのが人一倍早かった。周囲へ檄を飛ばすことも多々あったことは記憶にあります。それが試合の流れを(素早く)読む、というプレーとも関連があると思っているんですけど。一番の思い出ですか? たくさんありすぎてひとつに絞れないので、この質問(に関する答え)は、やめさせていただきます」 日本サッカー協会の関塚隆技術委員長は、前日26日に小笠原本人から電話を受け、引退を報告されていた。清水エスパルスのコーチだった1995年をはさむ形で、1993年から2003年までアントラーズのコーチを務め、1998年と1999年の一時期には監督代行として指揮を執った。 「最初はすごく寡黙で、本当に表現が下手な選手でした。でも、イタリアへ行って帰ってきてから、自分のプレーとフォア・ザ・チームのプレーのバランスがすごくよく取れるようになった。選手だけでなく人間としても、大きく成長したと感じましたよね」 アントラーズを離れてからも小笠原とは電話や、ときには直接会って近況を報告し合う間柄だった。だからこそ、セリエAのメッシーナへ期限付き移籍した2006年8月からの約10ヵ月間をはさみ、攻撃的MFからボランチへ、主役の一人から黒子に徹した小笠原の変化といま現在をリンクさせる。 「オレが、オレがと尖っていたものがだんだん丸くなって、全体を考えられるようになった。柴崎をはじめとする選手たちが成長したのは、彼が近くにいたことが非常に大きかったと感じています」 アントラーズも小笠原の後継者として、柴崎を候補に挙げていた。2年連続の無冠となった2014年。高卒3年目の柴崎やDF昌子源が独り立ちしてきた状況に、1996年から強化の最高責任者を担う鈴木満常務取締役は「いまの状況で柴崎が海外に移籍しなければ強くなる」と手応えをつかんでいた。 ただ、1990年代と異なり、日本サッカー界は海外移籍の潮流を無視できなくなっていた。アントラーズも次代のリーダー候補だったDF内田篤人、FW大迫勇也がドイツへ移籍。J1と天皇杯の二冠を制した2016年のオフには、柴崎も新天地へ旅立つことを前提に新チームを作ると鈴木常務は明言していた。