中国の奥地で出合った「長征の亡霊」たち、8万人が8000人に減った90年前の苦難の行軍
アフリカを出て南米へ、人類拡散のルートを歩いてたどるピュリツァー賞作家が見た中国
人類拡散のルートを徒歩でたどりながら、ストーリーを伝えるピュリツァー賞作家のポール・サロペック。2013年にアフリカで初めて刻んだ旅路は、東アジアにまで到達した。90年前の中国共産党軍(紅軍)の苦難の旅に思いをはせ、大きく変容を続ける中国に出合った。 ギャラリー:人類拡散のルートを歩いてたどるピュリツァー賞作家が見た中国 *** 3年間にわたって、私は中国を歩いてきた。旅が終われば、この国を約6760キロ歩いたことになる。 2021年10月に中国南西部から出発した私は、北東の方角に向け、「胡煥庸(フーファンヨン)線」と呼ばれる想像上の地理的境界線をおおむねたどってきた。この線は、緑が比較的多く、人口が密集した中国東部と、より乾燥して、人のまばらな西部との境目になっている。 私はここまで、車やバイクで行き交う人々をそれほど大勢見かけることはなかった。人口14億人の国で、自分が地平線まで独り占めしているというのは、時に奇妙に感じられた。もっとも、亡霊たちとは気づかぬうちに出くわしていたかもしれない。 アフリカを出た先史時代の祖先たちの足跡をたどり、私はこの12年間近くにわたってアフリカから南米への徒歩旅行に挑んできた。世界を歩き回っていると、地形に歴史の痕跡を読み取るようになる。中国の景観にもまた、物語が幾重にも綴り込まれていた。 雲南省で歩いたビルマ公路には、第2次世界大戦中に徴発された20万人の村人の血と汗がしみこんでいた。四川省では、丸石が敷かれた1000年前のシルクロードの名残を探した。しかし中国の、特に奥地を歩いていて、よく頭に浮かんだ“亡霊街道”の一つを挙げるとすれば、それは長征として知られる行軍だ。 中国の児童なら、誰もがその物語を知っている。この国が激しい内戦に揺れていた90年前の1934年10月、結党まもない中国共産党と農民から成る紅軍は、蒋介石の率いる国民政府に大敗し、中国南部の拠点から退却する。 全滅を免れるために、共産主義者たちは徒歩で9650キロにも及ぶ退却の行軍を開始。ヒマラヤ東部を踏み越え、大砲で守られた川を渡り、人間や荷役動物の背も立たないような沼地を横切った。 出発時には8万人以上いた兵員や付き従った一般人たちは、1年後、わずか8000人に減っていた。生き延びた者たちは陝西省の洞窟に身を潜めた後に、革命運動を再興。1949年までに中国全土を席巻し、この国と世界の姿を永遠に変えることになる。 自分たちほど長い行軍をやり遂げた者は歴史上いない、と同志の撤退を栄えある再生の物語にすり替え、毛沢東は得意げに語った。 現在の中国を歩いていても、長征のことを話す人はほとんどいない。それは愛国教育のなかで教えられることであり、歴史に材をとった常套句なのだ。しかし人もまばらな四川省の村々の縁石に座っているときに、あるいは陝西省の凍ったトウモロコシ畑をよろめき歩いているときに、耳を澄ませば何千足もの草鞋が立てる「ざっざっざ」という音が聞こえてきそうな気がしてくる。一時は80キロもの長さに延びた亡霊の隊列が、重い足を引きずる音だ。 そこで私はまたもや自問する。中国は今、どこを行軍しているのだろうか? ※ナショナル ジオグラフィック日本版9月号の特集「中国共産党のつらく長い退却の影を追って」より抜粋。
文゠ポール・サロペック(ジャーナリスト)