「お笑いの努力は目に見えにくい」『27時間テレビ』100kmサバイバルマラソン出場・モシモシいけが手にしたビッグチャンス
サッカー部から陸上部へ。初めての挫折を経験
高校受験を控えた中学3年の秋、サッカー部ながら、まだ学校で足が一番速かった僕は、陸上部員として駅伝大会に出場することになりました。 不思議とそのころには、「走るのが嫌い」という思いは消えていました。 人間ってすごいです。ちゃんと成長します。そのころから、「得意なことでちゃんと勝負したほうがいい」というマインドが芽生え始めます。 高校でサッカーを続けるという選択肢もありましたが、大勢に埋もれるのではなく、何かで抜きん出たい。 高校は、陸上部に入りました。 僕が入った高校は、早稲田大学の附属高校。がんばれば、えんじ色の「W」を着て、箱根を走れるかもしれない。これも大きなモチベーションでした。 県を代表するようなエースと一般生が混在する、ちょっと特殊な部活。 制服も、校則もほぼない、自主性を重んじる校風で、基本の練習メニューは自分たちで考えました。 今思うと、ネットやYouTubeなど、参考にするものが少ない時代に、よくがんばって考えていたなと思います。 僕の専門種目は800m。めちゃキツ種目です。走りきると、俗にいう「ケツワレ」が起きます。もともと割れているおしりが、さらに割れてしまうのではないかと思うくらいの強い痛みがおしりを襲います。二度とやりたくない。 当時2年生で、県大会に進出した僕は、その予選で1分58秒という、当時の学校歴代2位の記録を出しました。これが僕にとっての生涯ベストランです。 このまま練習を積めば、3年時には……と思っていた矢先に、ケガをしました。腸脛靭帯炎、通称「ランナーズニー」。オーバーワークです。 走れない日々が続き、ようやく復帰したあとは謎のスランプに陥り、ほんの数十メートルでも息が切れてしまう、まともに走れない体に。 診断されたのは、重度の貧血。回復し、完全に走れるようになったころには、もう3年の秋、最後の駅伝でした。 なんとか間に合わせ、メンバー入りを果たした僕は、アンカー区間を任されました。 メンバーの思いと汗が染み込んだ襷(たすき)を手に、ゴールテープを切りましたが、目標としていた関東大会出場は叶いませんでした。 僕の高校陸上は、まったく奮いませんでした。けれど、清々しさがありました。 ゴールしたあと、ここまで一緒にがんばってきた部の仲間たちや、授業をサボって応援に駆けつけてくれたクラスメイトたちの顔を見て、申し訳なさではない、何かわからないけど、とにかく熱い涙が止まりませんでした。 挫折を繰り返したけれど、陸上で勝負することを選んだ自分が、かっこよかったなと思います。 コースに向かってした深い一礼で、僕のランニング人生の第1章が幕を下ろします。 それから10年後、第2章が予期せぬかたちで幕を開けます。