経済成長の期待は素直に喜べるのか?アフリカに今なお残る植民地支配の記憶
アフリカの国々はどうやってできたのか―植民地分割という起源
アフリカ諸国の経済が70年代までの高度成長から長い停滞に陥った、最も重要な要因は、端的に言って各国の経済が植民地時代に形成された経済のあり方のままにとどまり、多様化や高度化(工業化・高付加価値化)などの産業の転換を十分に遂げることができなかったことにある。さらに言えば、そうした経済と産業の開発を推し進めることのできる、国家や社会の枠組みが形成されていなかったことにある。 アフリカの国々はもともと、19世紀の末から進められた、欧州列強による植民地分割にその起源をもっている。それぞれの植民地の領域は、イギリス、フランス、ポルトガル、ベルギー、ドイツなどの欧州諸国が、それぞれの植民地の領域を分け捕りにすることによって決められた。そして、現在のアフリカ諸国の国土は、その領域をおおむね引き継いだのである(図2は植民地分割がほぼ終わった際のアフリカの地図であるが、現代の国境線とかなり一致していることが分かる)。 欧州列強による植民地分割は、19世紀後半からアフリカ大陸で目立ってきた列強の間の利害対立や紛争の拡大を回避するため、各国のアフリカ領有について、実効支配の確立、相互通告など共通の合意の上で進められた。この合意を形成し、アフリカの具体的な分割を協議したベルリン会議(1884年‐85年)には植民地獲得に直接関わっていない国々も含めた欧州諸国とオスマン・トルコ帝国およびアメリカ合衆国が出席した。その一方で、アフリカからの代表は全く参加していなかった。つまり、アフリカの人びとが関知しないところで、列強の勝手な思惑と都合により植民地分割が進められたのである。他方で、会議に参加した欧米諸国は植民地を領有しなかったとしても一方的な植民地分割に間接的な責任を負っていることになる。 こうした経緯から、アフリカの植民地間の境界線は、アフリカの人びとの事情をほぼ無視するかたちで、引かれることになった。言い換えれば、同じ領域のなかに、文化、言語、慣習を異にする人びとがともに住むようになり、他方で、それらを共有する人びとが異なる領域に分かれることになった。またお互いに経済的なやり取りのない地域や生態系の異なる地域が同じ領域の中に併存するようになった。 欧州の列強は、各領域で実効支配を確立することを求められたので、警察・治安組織をはじめとする統治機構を構築しなければならなかった。それは、アフリカの人びとから見ると自分たちを支配する政府が空から突然降ってきたようなものである。地域によって違いがあるが、アフリカの多くの社会では、アジアや欧州に19世紀以前からあったような、厳格な身分制の下、広く人びとに労働や租税を強制的に課すような支配関係はもともと希薄だった。それは、人口が少なく、土地が相対的に豊富であり、人びとが移動を交えながら、柔軟に暮らしを織りなしてきたことと関係しているが、ここで詳しく触れることはできない。ともあれ、そうした人びとにとっては、余計に欧州から持ち込まれた政府の支配は受け入れ難いものだったと言えるだろう。