「男になれない」男とユダヤ的ユーモア。映画『ボーはおそれている』レビュー(評:藤田直哉)
ユダヤ人の『ロード・オブ・ザ・リング』
「父」は、「禁止」を命じることで、超自我の源泉になり、その延長に法律や国家や権力や神などが重なってくるとされてきた。というか、父をモデルに、人は「神」をイメージしてきたと言っていい。とくに、ユダヤ教における旧約聖書の神は、人間が約束を破るとすぐに苛烈な懲罰を与えるような「禁止」「法」「処罰」の側面が強い存在であった。 それに対し、本作は、その「神」の位置に、父ではなく母を据えている。インタビュー「A Nice Jewish Boy: Ari Aster on Beau Is Afraid and godlike moms」で、アリは「母親が神の位置を置き換えてしまうことは、とてもユダヤ的なアイデアだ(There’s something very Jewish about the idea of the mother replacing God)」と述べている(*1)。だから、本作は、「超自我=神」の位置に、母親が来るという、エディプス・コンプレックスのモデルの変化を描きながら、同時にユダヤ的な何かを語ろうとしているのだと考えることができる。 アリ・アスターはユダヤ系の家系に生まれたユダヤ人であり、彼のこれまでの作品もユダヤ性と結びつけて語られてきた。本作についても、監督自身が。「これは壮大で巨大な作品」「これはユダヤ人の『ロード・オブ・ザ・リング』みたいなものなんだ。」(*2)と言っている。 これはどういうことなのだろうか。ライムスター宇多丸が、トークショーでこのように言っていることがヒントになるかもしれない。「劇中で描かれる家族の離散の描写についても『それこそユダヤ的。パレスチナ問題のベースにもあるユダヤという民族がずっと負っている恒常的な“恐怖”──常に居場所がなくて、『怖い』と感じる部分が描かれている』とユダヤ民族の歴史を重ね合わせ」て語ったという(*3)。 家族の離散と、再びの集合を願う主人公の旅を、ユダヤ民族のそれと重ねて観るという読解の方法は、ありえるだろう。しかし、そうすると、全体の寓意はどのようになるだろうか。