「男になれない」男とユダヤ的ユーモア。映画『ボーはおそれている』レビュー(評:藤田直哉)
アリ・アスター監督最新作『ボーはおそれている』
*このレビューでは、映画の結末まで記述しているので、ネタバレを気にする読者の方は、映画の鑑賞後にお読みになられることをオススメします。
強い父が不在のエディプス・コンプレックス
フロイトの精神分析的な主体化の構図が現在では変わってしまっていることを寓意的に描く神経症コメディであり、おそらくはユダヤ民族の歴史と深く関わる寓話であろう。 フロイトの図式では、男の子は母を独占する父と対決し、象徴的に殺すことで一人前の大人として主体化する、とされてきた。その過程で、男の子は、父からの近親相姦の禁止を内面化し、法や倫理の命令の源泉として個人の中に「超自我」が形成されるとした。そこには、母親との近親相姦の欲望と、それへの懲罰としての去勢という脅迫が関わっている。これらが複合した葛藤を「エディプス・コンプレックス」と呼ぶが、本作は、まさにそのようなコンプレックスを映像化したような作品である。ただし、もはや強い父はおらず、強大な母がおり、息子も反抗や対立もしない(現代人も、そうなってきているように)。 これまでのアリ・アスター監督の作品も「家族・家族的共同体の両義性」のおぞましさ、とくに母的なものを中心に描いていた。『ヘレディタリー/継承』ではまさに二世代の母の問題が描かれていたし、『ミッド・サマー』では、母的なるものでイメージされがちな自然と人々が調和した共同体が、再生産=出産と人口の調整のためにどれほどおぞましいことをしているのかを扱っていた。その延長線上に、本作もある。 映画は4つのパートに分かれている。第一幕(と仮に呼ぶ)では、孤独に暮らす男の住まいに、色々な「他者」が入り込んでしまう。それは、まるで移民などに対する恐怖や脅威の感覚の寓話であるかのようである。 第二幕では、戦争で息子を失った裕福な夫妻が、ボーを息子の代理にしようとする。しかし、その陰で無視されている実の娘は精神を病んでおり、自殺を試みすらする。 第三幕では、コミューンのような共同体が描かれる。そこに「森の孤児たち」と呼ばれる劇団があり、洪水でバラバラになった家族が再会しようとする劇を演じる。ボーはそれに深く感情移入し、劇と現実の区別も曖昧になっていく。 そして第四幕では、母のいる実家に帰り、母と対決することになる。これらは、それぞれに、家族や共同体の問題に、別の角度から光を当てたものであろう。 全体の物語は、父親の命日に母親にいる実家に帰ろうとするが、帰れない。その後、母が亡くなり、ボーが来るまで埋葬できないと知らされるが、なかなか帰れず、焦燥の中で帰宅は遅延させられる。「母」や「故郷」を喪失し、そこに辿り着けない、という物語として全体は展開する。 「こんなことが起こったら嫌だ」ということがまさに現実化し続け、しかもエスカレートしていく神経症コメディは、第四幕に至って、「家族・共同体、母」の問題と激しく重なり合う。 父親は射精によるエクスタシーを感じると死んでしまう病を抱えており、ボーもそう思い込んでいたので、これまで童貞であった。しかし、それは母のついた嘘かもしれない。ボーは、勇気を出し、その呪縛を断ち切り、初めての性交に及び、死ななかった自分を発見する。──だが、代わりに相手が死んでしまう。 「起こったら嫌だ」という不安神経症を克服し、勇気を持って不確定な未来に飛び込む「一人前の男」になったかと思いきや、悪いことが立て続けに起こり、一人前の男=大人=主体として自立することができない。そのセックスすら母親が監視し、誘導していたことも判明してしまう。それどころではない。カウンセラーに話した母への葛藤も全部筒抜けになっていたのだ。 ネットの弱者男性論界隈では、母親が過干渉で過剰に介入するがゆえに、男の子は自発性や自主性を失い、自身の意志や欲望もなくして弱者男性になるという議論がある。その真偽のほどは知らないが、内向的で孤独なボーと母親の関係は、確かにそのように見える。母親はとても成功した経営者でもあり、息子は不能であり、父の影は薄い。 経営者として、経済的に成功し、リーダーとして権力を持ち采配も振るい、知名度も名声もあるという母親像は、社会で成功しようとする「強い」女性のひとつの類型だろう。だが、父に代わって君臨する母は、また別の抑圧と暴力を自身の子供(あるいは次世代に)発揮してしまうことにならないか、という問いかけが本作にはあるだろう。 ボーは、母親に殺意を持っている。自由になるために、母親を(象徴的に)殺さなくてはならないと感じているが、それには強い罪悪感が伴う。父と息子をモデルにしたエディプスコンプレックスに対して、母と息子との対立と葛藤による主体化の劇が本作なのだ。 出産から始まり、子宮を思わせる水の中に、かつては父や神がその位置にいた超自我(審判者)の機能すら果たす母によって沈められる本作は、強大すぎる母親とその監視によって、自我が如何に殺されるかのドラマ、主体化が如何に不可能にされているか、というドラマだと読み取ることができるだろう。 それは、西側的な価値観を持つ社会において、男性性や父性が力や権威を失い、女性性や母性が力を持った社会において、エディプスコンプレックスモデルがもはや機能しなくなり、別のモデルが必要であることをあけすけに提示していると言えるだろう。