宇佐美を号泣させたガンバ愛
ガンバへのあふれんばかりの「愛」を、宇佐美ははばかることなく公言する。1992年5月に京都府長岡京市で産声をあげた宇佐美の原点には、ガンバで活躍したFW松波正信の大ファンだった両親に抱かれて、Jリーグ黎明期の万博競技場で試合を観戦した記憶が刻まれている。 「ホンマ、2歳とかそのくらいの時らしいんですけど、万博のことだけは覚えているんですよ。松波さんが試合に出ると両親がもう大変で。僕がガンバのユースにいた時に松波さんがユースの監督になるとすごく喜んで、僕がトップチームに昇格すると関係者として万博に来られるようになってさらに喜んでくれて。両親もそうですけど、僕にとってもガンバはすべてなんです」。 トップチームで試合に出場し始めた2010年9月。セレッソ大阪とのダービーで先制ゴールを決め、当時の西野朗監督(現名古屋グランパス監督)の胸にオーバーアクション気味で飛び込んだ試合後には、その理由をこう打ち明けている。 「まだ試合に出られないときもあるし、ゴールを決めなければ(スタメンから)外されることもあるだろうけど、それでも僕はガンバから逃げない。日本国内でプレーするからにはガンバ以外にはありません、という決意も込めて抱きつきました。ガンバの脅威になるような存在にはならへん、ということです」。 2011年夏にブンデスリーガの強豪バイエルン・ミュンヘンへ期限付き移籍。思うような結果を残せずに移ったホッフェンハイムでも不本意なシーズンを送り、当時J2を戦っていたガンバへの復帰を決めた2013年5月にはこう語っていた。 「ヨーロッパでもう1年やる方がいいのか、ガンバに戻って力を蓄え直す方がいいのかですごく悩んだ。どちらが選手としてより大きくなれるのかを考えた時に、人はそれぞれ考え方があると思いますけど、自分はガンバでもう一度やり直した方がいいという結論に達した。自分にとっては、日本に帰るとなったらガンバしかないと常に考えきた。J1にいようが、J2にいようが、その下のカテゴリーにいようが、自分にとってガンバはガンバ。J2への抵抗はありませんでした」。 中学生のときから手塩にかけて育ててくれたチーム。ドイツで一敗地にまみれた自分を温かく迎え、常に鼓舞してくれたサポーター。エースとして厚い信頼を寄せてくれる長谷川健太監督以下の首脳陣とチームメイト。ガンバを取り巻くすべての人々に恩返しができるとしたら、それはタイトル獲得しかなかった。胸中に秘め続けてきた夢がかなう刹那を迎えたからこそ、無意識のうちに涙腺が決壊したわけだ。