消えた巨星「トランス・ワールド航空」 96年墜落事故と自由化の波に呑まれた栄光の終焉を振り返る
無着陸横断便の先駆者
1950年、TWAに改名される。以後、TWAは米国経済の成長を背景に、新しい機材と就航路線を増やしていった。1952年にはロッキード・スーパーコンストレーションを導入し、史上初めて米国大陸を無着陸で横断する定期便を実現する。 その後、ボーイング707やコンベア880、ロッキード・トライスター、ボーイング747などの新機材が次々と投入され、路線網は急速に拡大した。国内線はセントルイス、国際線はニューヨークを中心にして、米国各地や欧州、中東、アフリカにまで進出している。特に大西洋路線には強く、ロンドン、パリ、フランクフルトなどの主要都市への多数の路線を持つハブとして機能していた。 1969年にはパンアメリカン航空(パンナム)を抜いて、トップのシェアを獲得している。また、TWAは新機材の導入に意欲的であるだけでなく、1961年には史上初めて飛行機内で映画を上映するなど、サービス面でも革新的な航空会社だった。ハワード・ヒュルツは映画業界の有名人であり、その人脈を生かしてハリウッドスターを多く登場させ、映画にも頻繁に出演させることで強い宣伝効果を発揮した。 ヒューズは1966年に経営方針の違いからTWAを離れるが、翌1967年には世界屈指のホテルチェーン・ヒルトンを買収し、以後も積極的に経営規模を拡大していく。また、東アジアや東南アジアにも路線を持っていたが、厳しい規制や発着枠の関係で日本への路線は沖縄に限られていた。 そのため、日本ではパンナムやノースウエスト航空に比べて知名度が低くなってしまったが、米国航空業界の黄金時代を代表する航空会社のひとつとして強いブランド力を保っていた。
買収戦略の限界と苦境
しかし、そんなTWAの黄金時代も、1978年の航空自由化によって暗転する。もともと、TWAは欧州各地にパイロットの拠点を置くなど高コスト体質だったため、コストカットに苦しむことになる。国際線の名門として急速に衰退していったパンナムと比べて、1980年代には比較的堅調な業績を保っていた。 しかし、国内線の強化を目指した買収は、1986年にセントルイスを拠点とする地域航空会社・オザーク航空のみにとどまった。ノースウエスト航空がリパブリック航空を買収し、国内各地に路線網を持っていたのに対して、TWAは劇的に国内線を増やすことができなかった。 その結果、身売りを検討するようになり、一時はコンチネンタル航空など多くの航空会社を破産に追い込んだことで知られるフランク・ロレンツォへの売却を考えた。しかし、ロレンツォへの評価は当時から低く、労働組合が強く反対したため、結局この話は断念される。 そして1992年と1995年には、チャプター11(連邦破産法)を申請した。TWAの強みであった大西洋線も次々と路線が消滅し、同社はセントルイスとニューヨークを中心に運行する中堅航空会社へと変わっていった。