竹島領有、日韓条約で密約説 2025年は島根県「竹島の日」条例の制定から20年 なぜ問題は棚上げされたのかー
島根県「竹島の日」(2月22日)条例の制定から2025年で20年を迎える。節目を機に竹島問題に関するさまざまな「なぜ」を検証する。 【写真】竹島アシカ猟 1941年6月の撮影が判明
1964年、日韓国交正常化交渉は難航を極めていた。51年のサンフランシスコ平和条約調印後に米国のあっせんで始まった予備会談から10年超。最大の壁は、隠岐諸島の北西158キロにある総面積0・21平方キロの島だった。日韓双方が領有権を主張する竹島(島根県隠岐の島町、韓国名・独島(トクト))である。 「竹島問題の解決なくして国交正常化なし」との姿勢を崩さない日本。対する韓国は議論すら受け付けないスタンスだった。国交を樹立する日韓基本条約締結の最終局面に至っても折り合えない中、双方の政治家が竹島問題の結論を先送りする「密約」を交わしたとの説がある。 唱えているのが韓国人の政治経済学者ロー・ダニエル氏(70)だ。密約成立の現場に立ち会った当事者らに取材し、外交記録を掘り起こして2008年に『竹島密約』を上梓(じょうし)した。 鈴木宗男衆院議員(当時)に質問主意書で真偽を問いただされた外務省は「密約があった事実はない」と否定する。一方のロー氏は「事実を積み上げており、内容には自信はある」と断言する。
ロー氏によると、密約の中身は「竹島・独島問題は解決せざるをもって、解決したとみなす。したがって(日韓基本)条約では触れない」を大原則に(1)両国とも自国の領土であると主張することを認め、同時にそれに反論することに異論はない(2)韓国は現状を維持し、警備員の増強や施設の新設増設を行わない-といった条項が付けられていた。 密約交渉は条約締結前の1964年から65年にかけて行われ、日本側は河野一郎副総理と宇野宗佑衆院議員、韓国側は丁一権(ジョンイルクォン)総理と金鍾珞(キムジョンラク)氏(金鍾泌(キムジョンピル)元総理の兄)が当たった。佐藤栄作首相と朴正熙(パクチョンヒ)大統領が了承したとされる。 冷戦下で国際情勢が不安定な時代。65年1月半ばに訪米を控えていた佐藤首相は、米大統領との会談を成功させるためにも日韓国交正常化を成し遂げてほしいと河野副総理に伝えたという。 ロー氏によると、河野副総理が金氏と向き合い、金氏から示されたのが「未解決の解決策」だった。その後、佐藤首相は年頭の施政方針演説で「日韓交渉の早期解決」方針を示し、朴大統領も「年頭教書」で日韓交渉の年内妥結を宣言。その年の6月22日、日韓基本条約の締結に至る。
条約とともに交わした文書に「紛争解決に関する交換公文」がある。密約が公にならないよう考え出されたとされる。「紛争が外交上の経路で解決できなかった場合、両国が合意する手続きに従い、調停によって解決を図る」との内容だ。 問題解決のめどだけはつけようと、日本が韓国を説得して作成したとされる。日本は「紛争は竹島問題を指す」と捉える一方、韓国は「領土問題は存在せず、紛争は独島を指すものではない」と主張する。 日本にとって竹島問題は「ある」が、韓国にとって独島問題は「ない」。日韓双方が異なる解釈をするという落としどころだった。