岸谷五朗「19歳で三宅裕司さんの劇団に入団。夜中のサンドイッチ工場や解体工事、あらゆるアルバイトをしてレッスン費を稼いだ」
素晴らしい母上あっての岸谷さんだったかも。本気で舞台俳優を目指したのはいつ頃なのか。 ――学生時代はやりたいことだらけで、将来のことなど考える暇もないくらい遊び回ってたんですけど、本当にこれ、不思議なことに、「あ、そう言えば俺、舞台俳優になるんだった」っていうのが突然、降りてきたんですよ。そろそろ進路を考えなきゃという、高校生の時ですね。 それからはもう舞台俳優になることしか頭になかったんですが、大学には行ったほうがいい、と母に言われて、中央大学に入学。でも大学1年の時、もう19歳で焦っていたこともあって、学生演劇をやることもなく、オーディションを受けて劇団に入れていただきました。 三宅裕司さんが主宰する劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)というところ。応募は100人以上あったみたいですけど、入ったのは僕を入れて3人でした。 最初はあまり役がつかないんで、毎日いろんな稽古づくし。舞台で見せられるものは全部吸収しようと、アクロバットとかタップダンスとかジャズダンスとかクラシックバレエとか。 バレエは当時ワンレッスン1500円だったかな。アルバイトを3時間しないと稼げない金額で、夜中のサンドイッチ工場とか解体工事とか、あらゆるアルバイトをしました。 三宅さんから当時、唯一褒められたのは、「岸谷は劇団のレッスンだけじゃなく、外にアプローチしていってるのがいい」って。 ですから第1の転機は、この三宅さんの劇団に入って演劇の道への第一歩を踏み出したことでしょうね。
◆映画からのインヴィテーション ところで、『そりゃなしだろ!!NAI NAI’ 91』という本がなぜか私の本棚にあって。 ――え? ラジオ本(笑)、リスナーの本ですよ。TBSラジオで『岸谷五朗の東京RADIO CLUB』、いわゆる「レディクラ」という番組を90年から4年間ほど担当してました。この番組がきっかけで名前が知られるようになって、それが映画『月はどっちに出ている』につながるんです。 ある日、崔洋一監督から、ちょっと会いたい、と言われて、行ったら「この台本、読んでくれ」って。あ、これ、オーディションなんだな、と思って読んで。 あとで聞くと、実は会った時にもう「ああ、姜忠男(カンユンナム)がいた!」と思ったそうなんです。在日韓国人のタクシードライバーの役なんですけど、でもそのあとに100人くらいに会ってるんですよね、崔さん。まだ探してた。(笑) それで、結局主役に選ばれて。原作を書いた梁石日(ヤンソギル)という在日二世の作家と、鄭義信(チョンウィシン)という脚本家、そして崔監督、全員のルーツがコリアンで、彼らがずっと感じてきたことが映画になっている。だから遠慮なく本音で描けるんですね。 共演したフィリピン人のルビー・モレノさんもよかったし、タクシーの営業所長役で出ていた麿赤兒さんも面白かった。昔、僕が中野のアパートにいた頃、麿さんの家が近くで、お弟子さんたちがゴロゴロしてて、「妖怪屋敷」って言ってましたけどね。(笑) とにかく『月はどっちに出ている』で、お茶の間にも知られるようになったのが、やっぱり第2の転機でしょうね。 (撮影=岡本隆史)
岸谷五朗,関容子
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