「自分にハンデがあるとは思わなかった」──「耳の聞こえないデザイナー」がつなぐ、ろうの世界と聴の世界
トライアングル理事長の児玉眞美さんは、長年、聴覚障害児の指導と研究に携わってきた。 「健常の子どもは、聴覚という精密機械を使って言語を獲得していきます。生まれたばかりの赤ちゃんから一つの単語が出てくるまでに、約1年かかります。それだけの時間をかけてやっている脳の活動ですから、聴覚に障害を持っている子どもでは、コミュニケーションの手段によって2年も3年も待たなくてはならない場合もあります。その時期の家族をどう支えるかが大切です」 90年代後半は、ろう教育が変わりつつあった。かつては、教員や指導者が、手話を使うと口話(相手の口の形を読み取り、口の形を真似て発話する)が上達しないという理由で、手話を禁止することが多かった。 「1988年にアメリカの大学でろう者の運動があって、ろう者は保護される対象ではない、自立した存在だという当事者主権が広く唱えられるようになりました。そのときに、手話は一つの独立した言語であるという主張もなされたんです」
その動きは日本にも波及した。禎子さんは「直樹のときは過渡期だった」と振り返る。 「ろう学校はまだ口話法でしたけど、キューサインといって、音の識別を助けるしぐさを使う学校もありました。私はとにかく、どうにかして伝えようと考えていました。声でもしゃべりながら、手話もしながら、絵も描きながら、字も書きながら、私は私なりのトータルコミュニケーションのかたちをつくって、それで育てよう、日本語がわかるようにしようって」 3歳をすぎたころ、直樹さんが言葉を発するようになった。 「わあっと、うるさいぐらいにしゃべりだして。直樹がしゃべっている言葉? わかりますわかります。たぶんこういうことを言いたいんだろうなって。それを正確な言葉に直して、書いて示しながら、手話をつけてしゃべる、みたいな毎日でした」
通常の学校からろう学校へ
紀の川市の小学校に難聴学級はなかったが、低学年のときは要約筆記を、高学年では手話通訳をつけてくれた。禎子さんに聞いても、6年のときの担任の辻潤先生に聞いても、友だちにいじめられたなどのエピソードは出てこない。むしろ「え?」と驚く思い出話が飛び出す。 「放送部に入ったんですよ。『あなたが?』って。で、彼が朝の放送を担当する日があったんです。私はそれを聞いてないんですけど、先生が『直樹くんの放送よかったよ』って。『あの子の発音でわかりますか』って言っても『わかったよ』って。生徒会長にも立候補して。マイクを持って演説もしたんでしょうね。おかしいでしょう(笑)」(禎子さん) 辻先生は、卒業式で6年生全員で手話をつけて「ありがとう・さようなら」を歌ったことが忘れられない。 「ありがとう、さようなら、ともだち、走るように過ぎた楽しい日って、そういう歌なんです。それを2クラス60人が一斉に手話をするんです。実は手話をつけることは校長には内緒にしてたんですね。事前に相談しなかったので、マズいと思いましたが、まあええわ、怒られてもと思って。当日、みんなの手話がぴたっと合って、ぱっと校長のほうを見たら、ぶわーっと涙を流してるんですよ。よかった、これは怒られへんわと思いました(笑)。みんなで歌うときって直樹の声はあまり聞こえないんですけど、なぜか本番ではよく聞こえたんですよね。そんなこともよく覚えてます」