「自分にハンデがあるとは思わなかった」──「耳の聞こえないデザイナー」がつなぐ、ろうの世界と聴の世界
一方、日本語を手や指で表すこともあり、それらは「日本語対応手話」や「手指日本語」と呼ばれて区別されることがある。 ろうの親から生まれた子どもの多くは自然に日本手話を身に付けるが、ろう児の親の9割は聴者だ。 岩田さんが本格的に手話を習得したのはろう学校に進学した中学生以降で、少しずつろう者としてのアイデンティティーを獲得していった。 「聞こえる人たちにも、ろう者のことをもっと知ってもらえたらうれしい」
母の思いと、二つの選択
岩田さんは1995年に、和歌山県北部の紀の川市で生まれた。三つ上の姉がいる。聞こえないとわかったのは1歳半のときだった。少し前から兆候はあって、自動車にクラクションを鳴らされても反応せず、テレビのリモコンをいじって音量を最大にしてけろっとしていた。母の禎子(よしこ)さんが近隣の総合病院につれていくと、両耳とも聞こえていないと診断された。 「もう頭が真っ白になって。どうやって帰ったかも覚えてないぐらい。夫に『聞こえないんやって』って泣きながら電話して」 友人の知り合いにろう学校の先生がいて、0歳から相談できる親子教室があるから電話するようにすすめられた。すぐに和歌山市にある県立和歌山ろう学校に電話して、翌日には学校を訪れた。 子どもが聞こえないとわかった瞬間から、親は選択を迫られる。一つは医療の側面だ。当時は、人工内耳による治療が始まったばかりだった。人工内耳とは、耳の奥に電極を埋め込み、音を電気信号として直接神経に伝えることで聞こえるようにする仕組みだ。日本初の施術は1985年。直樹さんが受診した時点では、和歌山県の症例は数えるほどだった。
禎子さんは、診断と同時に医師に人工内耳をすすめられた。ろう学校でそう言うと「ちょっと待って」と言われた。 「一度切開してしまうと残っている聴力もなくなるなどのリスクを、そこで初めて聞いたんです。お医者さんはいいことしか言わなかったので。まずは補聴器で試してみてもいいんじゃないというアドバイスもあって、手術はお断りしました」 もう一つの選択は教育だ。ろう学校で聞こえない友だちと一緒に教育を受けるか、障害者と健常者が同じ場所で教育を受ける「インテグレーション」を目指すか。 禎子さんの場合、直樹さんをろう学校の幼稚部に通わせ始めたが、そこでの生活に違和感を覚えた。和歌山ろう学校の生徒数は、幼稚部から高等部まで合わせて50人ほど。小学部より上になると1学年に1人か2人の年もある。 「子どもの数より大人の数のほうが多いみたいな状況が、過保護に感じてしまったんです。小学3年までは毎日親がつきそうというルールもあって、子どもの集団という感じがしなかったんですね。小さいときって本当に限られた時間だから、ここでこの時間を過ごしていいのかなと思ったんです」