天才肌と言われたけど、感覚だけではできないですよ――加藤茶78歳、笑いと歩んだ半世紀
ドリフターズの成り立ちはバンドだ。 「『ホイホイ・ミュージック・スクール』という番組で、素人さんの歌の伴奏をしていました。そこでちょっとしたコントがあって、初めて役をもらって、酔っ払いのお父さんをやったんです。そしたら、ディレクターさんがすごく気に入ってくれて、僕の笑いのコーナーを作ってくれた。演技も笑いもやったことはなかったけど、ウケたらどんどん気持ちがよくなって(笑)。『あぁ、俺いけるかもしれない』と思って、楽しくなっていきました」 1966年、ドリフターズはビートルズの来日公演の前座を務めた。「ドリフは音楽が基本」だと加藤は言う。『全員集合』では「いい湯だな」「ドリフのズンドコ節」など、多数の“ドリフソング”も生み出した。 「やっぱり、リズム感ってすごく大事。リズム感のない方とは、コントをやっていてもテンポが合わないんですよ。最初は音楽コントを大事にしていましたね。『全員集合』を毎週やるので、だんだん音楽を作る時間がなくなっちゃったんですけど」
『全員集合』は公開生放送で、全国各地の会場から中継した。毎週木曜日がネタ作りで、金曜に立ち稽古、土曜が本番。ドリフターズが構成、演出、出演、小道具や大道具の発注までやっていた。 「自分たちで屋台崩しも全部計算して。最初は2クール(半年)の約束で始まったんですよ。1クールは作家さんが考えてきたものをやって、あんまり面白くなかった。で、『やっぱりドリフには無理か』みたいな話が出たんです。長さん(いかりや長介)と俺とで『これで終わられたら納得いかないよな』と話して、ネタをどんどんぶつけた。そしたら視聴率がドーンと上がってきて、『これはもうドリフに任せる』となったんです」 コントからセットまで考えるのは大変で、「木曜日が嫌で嫌で仕方がなかった」と振り返る。 「やっぱりきついですよ。営業に行ったり他の仕事をしたりしている時も、ネタを考えている。ネタ作りが木曜から金曜の朝までかかって、何も出てこないこともあった。もうね、出てくるまで待つんですよ。長さんは、考えるって言いながら寝ている(笑)。4人はゲームや将棋をしていて、そのうち誰かがふっと思い浮かぶ。で、『こんなことどうかな』とみんなに言って、『いいね』となったら作り出す。思い浮かぶまでは、シーンとしていて雰囲気が悪くて、笑いを作っている集団には見えないですよ」 「『全員集合』が始まって300回くらい(6年)までは、ポンポンとできていた。それを超えるとね、『あれもやったしな、これもやったしな』って。でも、土曜日は毎週必ずやってくるから、やらなきゃいけないという使命感があった」