天才肌と言われたけど、感覚だけではできないですよ――加藤茶78歳、笑いと歩んだ半世紀
17歳の時におばを訪ねて上京する。時は60年代、東京の活気に圧倒された。 「東京のパワーがものすごかったんですよ。『ドーンとよくなるぞ!』という空気があって。俺、このまま田舎に帰ったら置いてかれるんじゃないかな、と思いました。それでおばさんの家に泊まりこんで仕事を探して、『渡辺弘とスターダスターズ』のバンドボーイになったんです。おばさんに悪いので自分でアパートを借りて、田舎に帰らなかった。高校は2年で中退。『高校出てから来いよ』って言われたんですけど、帰っている間に、バンドボーイの職がなくなっちゃうんじゃないかと思って」 「給料は月5000円。川崎に住んでいて、アパートの家賃が3500円だったから、家賃と交通費で全部消えちゃうんですよ。かけうどんが1杯70円だったかな。おばさんが下に住んでいたので、そこでお米を失敬して、炊いて食べていた(笑)。でも、それも年じゅうじゃないよ。食べられないこともありました」
バンドボーイからビートルズの前座まで
バンドボーイをしているうちに、ドラムと出合う。 「最初はトロンボーンがやりたかった。でも、月5000円の給料じゃ、とてもじゃないけど買えない。ある時、ドラムさんが『坊や、このスティックを捨ててくれよ』って僕に預けたんです。スティックの先が折れていて、『これ、削ったら使えるんじゃないかな』と。先を削って、ドラムを始めました。膝の上でも机の上でも、雑巾を敷いた上でも、どこでも練習できますから」 「ドラマーのチコ菊池さんが『俺が教えてやるよ』と。赤坂のコパカバーナというクラブで、演奏の休憩時間を使って、毎日2時間を10日間、マンツーマンで教えてくれました。10日でできるようになったら、チコ菊池さんのお兄さんがやっているバンドのメンバーになれ、と。それでバンドに入りました。その後、『クレイジー・ウエスト』というロックバンドに加わって。米軍キャンプとかを回っているうちに、『そこそこ叩くドラムがいるよ』と、ドリフターズに引っ張られたんです。ドリフターズに入って、給料は月15000円になりました」