夜の路上で、いきなり頭から南京袋をかぶせられた 北朝鮮に連れ去られた曽我ひとみさん、帰国までの24年 「若い人にこそ知ってもらいたい拉致問題」(前編)
日本から北朝鮮に拉致された人のうち、5人が帰国してから2022年で20年となった。この年、被害者の1人で新潟県佐渡市に住む曽我ひとみさんは、これまで以上に精力的な発信を行った。報道各社からの質問に1社ずつ対応して丁寧な返信をくれ、介護施設での仕事の傍ら、何度も講演台や街頭に立ち、全面解決を訴えた。 「横田めぐみさんは北朝鮮で生きている」失踪から19年2カ月後に伝えられた衝撃の情報 母・早紀江さんは聖書手に「魂を和らげ静めた」
ただ、共同通信を含めた報道各社の「帰国20年」の特集は、過去の記事との重複を避けるため、主にここ数年間の政府交渉の推移と被害者の状況に焦点が当てられる内容が多い。 曽我さんが何度も繰り返していた「拉致問題を知らない、若い人たちに伝える」という願いに、メディアは応えられているのだろうか。曽我さんの帰国当時、4歳だった私は疑問に思い、壮絶な経験を改めて取材。これまでの発言や手記から半生をたどった。(共同通信=湯山由佳) ▽幼少期。貧しくとも笑顔だった母との思い出 佐渡市で生まれた曽我さん。楽な暮らしではなく、母ミヨシさんは一家を支えるため家事と工場勤め、夜の内職を両立していた。脳裏に浮かぶのは、余裕があったわけではない生活に愚痴の一つもこぼさず、いつも笑顔を絶やさない母の姿だ。 保育園の帰り道、迎えに来たミヨシさんが包んでくれた角巻き(外套)の温もり。自分の弁当のおかずは辛い漬物だけでも、遠足に出かける娘の弁当にはウインナーや卵焼きを入れてくれた。「母ちゃんの弁当はなんでこんなに少ないの。漬けものだけなの」とたずねると、ミヨシさんは「漬けものが辛いからごはんがいっぱい食べられるんだよ」と笑っていた。
浴衣で盆踊りに出かける小学校の友人と同じ浴衣姿がいいとねだると、少し困った顔をしながらも夜なべして浴衣を作ってくれた。自分のことは後回しで、いつも子どもを第一に考えてくれる母親だった。 曽我さんが定時制の高校に通いながら、佐渡市内の病院で准看護師として働いていた当時、患者の脈を測りやすいと選んだ男性向けサイズの腕時計は、母が贈ってくれたものだ。この腕時計は、拉致された後、くじけそうになる度に叱咤激励してくれる母同然の存在になった。 ▽2人で買い物中、突然船に乗せられ 1978年8月12日。当時19歳の曽我さんは普段、病院の寮で暮らしていたが、土曜日だったこの日は、いつものように実家に帰った。夜ごろになり、ミヨシさんと先祖の墓前に備える赤飯を用意していたが、足りないものに気づき、2人で近所の雑貨店まで買い物に出かけた。 2人で家路に戻る途中、見知らぬ男性3人に後ろをつけられ、自宅まであと100メートルほどの場所で襲われた。いきなり頭から南京袋をかぶせられ、手足は拘束。近くの川につけていた小舟に乗せられた後、沖に待機していた別の大きな船に移された。