夜の路上で、いきなり頭から南京袋をかぶせられた 北朝鮮に連れ去られた曽我ひとみさん、帰国までの24年 「若い人にこそ知ってもらいたい拉致問題」(前編)
▽結婚するも、北朝鮮での過酷な生活は続く 曽我さんは1980年、北朝鮮で結婚した。相手は在韓米軍の陸軍軍曹で、北朝鮮に亡命してきたチャールズ・ジェンキンスさん。曽我さんの英語教師だった。その後、2人の娘を授かった。 結婚後は「特別地区」と呼ばれる場所で生活したが、監視下ではなかなか単独行動が取れない。指導員に連れられ外貨ショップに買い物に行くことはあったものの、どうしても足りないものは闇市にこっそり買いに行くしかなかった。指導員に気付かれれば外出が厳しくなる。毎回、神経を張り詰めていたため疲れた。それでも「安いものを求めるのはどこの国の主婦も同じ」。ある日、闇市で卵を買うと、ひよこになりかけのものや、どろどろに腐ったものが混ざっていた。食べられそうなものは買った個数の半分だったが、目当てだった家族の誕生日ケーキはどうにか焼くことができた。 つらかったのは冬の生活だ。北朝鮮は極寒。大雪になったり氷点下になったりするのは故郷の佐渡でもあったが、生活の大変さは全く違う。
「発電技術が未発達で、燃料となる重油なども足りず、一日に何度も電気が止まるのです。ある氷点下の日、水洗トイレが凍り、あまりの寒さに氷が膨張し、トイレが破裂してしまいました。またある日、お風呂に入れないので、お湯を沸かしてたらいに移し、素早く体を洗うのですが、あっという間に冷水になってしまうのです。北では眠くても寒すぎて眠れないのです。そんなとき、家族で固まって寝るのですが、みんなそれぞれに靴下を何枚もはき、着られるだけのセーターや防寒着を着て、着ぶくれした状態で寝たものです」 ▽支えてくれた家族の存在と、現地の市民との交流 苦しい生活の中でも、希望や喜びはあった。支えになったのは夫と2人の娘の存在。曽我さんは「自分が1人ではなくなったことがとても嬉しかったです」と振り返る。 子育てをする中で現地の人々の優しさにも触れた。ある日、娘たちが通う学校で運動会があった。北朝鮮でも親は子どもたちの応援に行くが、曽我さん夫妻は拉致された身のため住居地以外への外出が禁じられ、見に行けない。困るのは昼食時だ。生徒は親の元に集まるが、曽我さんの娘はそれができない。