夜の路上で、いきなり頭から南京袋をかぶせられた 北朝鮮に連れ去られた曽我ひとみさん、帰国までの24年 「若い人にこそ知ってもらいたい拉致問題」(前編)
袋を外されたのは船の上。曽我さんは当時の状況をこう話す。「窓もない暗い船室に押し込められていたので、外の様子も知ることができませんでした。身に起きた出来事にただ恐怖するだけで、声を殺して泣くしかありませんでした」 船室に母の姿はなかった。泣き疲れて目を覚ますと、13日の夕方を回っていた。船の甲板から外の景色を見ると、見覚えのない港に着いていた。日本語を話す女性に場所を問うと、「ここは北朝鮮という国だ」と答えた。 別の男性に母の安否を尋ねると、こう言われた。「母さんは日本で元気に暮らしているから、心配しなくていい」(※ミヨシさんは日本政府が認定する拉致被害者だが、北朝鮮側は現在まで、「未入国だ」と主張している) ▽横田めぐみさんとの出会いと別れ 拉致されてから「招待所」と呼ばれる施設での生活が始まった。そこで、曽我さんよりも先の1977年に13歳で新潟市内から拉致された横田めぐみさんと出会う。通算で8カ月間、一緒に生活した。
曽我さんが振り返る当時の状況はこうだ。 「招待所での生活が始まって数日たったある日、組織の別の幹部らしい人が来て、別の招待所に移ると言われ、慌ただしく引っ越しました。招待所に着くとある女の子がいました。彼女は私を笑顔で迎えてくれました。横田めぐみさんでした。ちょうど私の妹と同じくらいの年でした。ずっとひとりぼっちだったせいなのか、彼女とはすぐに仲良くなりました。あのときのめぐみさんの笑顔は今でも忘れることはありません。いつもにこにこと、あの可愛らしいえくぼを見せていました」 二人っきりの時や皆が寝静まったときに、誰にも気付かれないよう小さな声で日本語で話した。内容は家族や友達、学校のこと。外出の機会があると、少し離れた場所で日本の歌をこっそり歌った。一緒にアイスを食べたこと、押し花を作ったこと、一緒に書いた絵も思い出だ。 ただ、二人が一緒に暮らせたのはわずかな期間だった。招待所を出た後、めぐみさんとは、外貨ショップで偶然会ったことがある。元気な姿だったと記憶に残っているが、その後、再会はできていない。